睡蓮の書 二、大地の章
「ええ! 今年は、去年以上なんだから! 期待していいわ。愛情こめて絞るんだから――……あらっ」
山盛りになったぶどうを、篭から大きな土製の甕《かめ》へ移していたファスラは、困ったように声を上げる。どうやら甕はこれで最後のひとつ。この篭を移すといっぱいになってしまうだろう。ぶどうは、まだまだたくさん実をつけているというのに。
「困ったわ……。たくさん作りすぎてしまったかしら……。ああ、今はこういうものを作る人がいないんだもの、誰に頼めばいいのかしら!」
ファスラが嘆く。その声もまたよく響いた。
「前には、誰かいたの? 甕を作ったりする方が」
言葉をとらえて、ソークが小首をかしげ尋ねる。
「ええ、そうなの。カナスのお父様がね、とてもお上手だったのよ。こっち側から三つの新しいものが、そうなの。素敵でしょう? シンプルだけど味があって。それにこれ、とっても使いやすいのよ。カナスのお父様って、まさに職人だったわ。カナスって、お父様に似たんじゃないかしら。仕事一筋なのよ。……ああん、そこがまた素敵っ!」
「誰が素敵なの?」
そこへ、ホリカが姿を現した。女神たちの視線が集まる。
「あらホリカ、どうなの? シエンの様子は」
「まだ寝てるわね。……一体いつになったら起きるのかしら。言いたい事は山ほどあるのに!」
ホリカは腰に手をあて、いつもの調子で大げさにため息をついてみせた。
「それが怖くて起きられないんじゃない?」
ファスラがおかしそうに笑う。
一昨日の朝、ホリカが包帯をぐるぐる巻かれた状態のシエンを連れ帰ったときは、女神たちはいつもの喧騒を潜め、ひっそりしていたのだが、二日経つとこの通り、いつもの華やかな雰囲気が戻っている。
ここ西は、女神たちの神殿。もともと女神や、子供をもった家族が多く住まう神殿だったが、今は本当に――シエンを除けば――女神しかいない。
女神たちは日々、機を織ったり、篭やマットを編んだり、植物の世話をしたりして過ごしていた。仕事というより、それは趣味のようなもので、何をするにもお喋りを欠かすことはなく、むしろお喋りのついでに手を動かしているようだ。
「そんなことより、素敵って誰のことなの」
「カナスよ、カナス! 当たり前じゃない!」
「まあ、ファスラったら。カナスが素敵なのは分かるけど、あなた男の子に興味はないの?」
ホリカがあきれたように言うと、
「興味ないわけないじゃない!」つんと顔を背けるようにして、ファスラは答える。「でも、カナスは特別よ。その辺の男よりよっぽどいいわ」
「……なにか、あったの? ファスラ……」
言葉に棘を感じて、フエがやはり小さな声でそっと尋ねる。ファスラはトーンダウンして、なんでもないわよと答えた。
「残念ね。カナスが男なら良かったのに」
ホリカが冗談交じりに言うと、
「だ〜め! カナスは女だからいいの。美人で、あのスタイルのよさでしょ。私が男だったら、放っておかないわ!」
「それじゃあ、ファスラが男だったら良かったのかしら?」
「それ! ……って言いたいとこだけど。でも、だめなのよ。だってカナスったら、自分より強くないとって言うんですもの」
「まあ……本当に、カナスがそんなこと話したの?」
意外とばかりに目を丸めホリカが尋ねると、ファスラは額をつきあわせるように体を寄せて、とっておきの噂を伝えるひそひそ声に変えた。
「ちょっと前の話だけどね、それとなく聞いてみたのよ。カナスったら、ぜんぜんそんな気ないって感じだったから、安心したって言うか、ちょっともったいないなって思ってたんだけど。ただね、もしも、もしもってしつこく聞いたら、最低でも自分より弱いのはナシだって言ったの」
「あらでも、カナスより強いって、ちょっといないんじゃないかしら」
「そうなのよねえ。東の風神ヤナセは既婚だし、ほら、南からよく来るキレスは、カナスの言う“強い”には当てはまらないでしょ。だから……そうだ、シエンならどう? 彼なら、カナスを超えられるかも!?」
ぴくり。フエがハーブを摘んでいた手を止める。ホリカが目配せしてやっと、ファスラはしまったというように口元を押さえた。
「ファスラさん、それってほんと?」
ソークが一人、薄茶の瞳をぱちぱちと瞬いてたずねてきた。
「や、やあだ、もしかしたらって思っただけよ! ……あ、ほら、中央には他にもいっぱいいるでしょ? やっぱり、可能性があるとしたら、そっちよね!」
ファスラが必死で取り繕っていると、
「わたし……これ、置いてくる……。いっぱいに、なったから……」
立ち上がったフエが、消え入るような声でそう言うと、庭を離れてしまった。
急に静まり返った女神たちの様子を気にするように、ソークの母アスが機を織る手を止めた。風だけが、軽やかに駆ける。
「そ、そうだわホリカ!」ファスラがわざと明るく声を響かせ、気まずい空気を追い払った。「私のぶどうも、これ以上入らないくらいいっぱいなの。また篭を編んでくれないかしら」
和やかな空気が戻り、それに安堵するように、ホリカは笑顔でうなずいた。
シエンが、なんて、ファスラも本気で思ったわけではないのだろう。ただ力あるものをと考えたとき、浮かんだだけに違いない。
力が強いのは当たり前だ、彼はあれでも、四大神の一人なのだから。――でも。
(そんな力を持ってしまったせいで……)
篭を編むための葦材を用意しながら、ホリカは血の池に倒れこんだ弟、あの光景を思い浮かべていた。忘れてしまいたいのに、脳裏に焼きついて離れない。もう二度と、見たくない……。
手は動いていたが、自然と険しい表情を作っていただろう。じっとファスラが覗き込んでいたことに遅れて気づき、慌てて、なあにと笑ってみせる。
「ホリカって本当に器用よね。早く、しかもこんなに丁寧に作れるなんて」
ファスラはその表情ではなく、手元を見て感心したようにつぶやいた。ホリカはほっとして、
「母さんに似たのかもね。得意だったのよ、こういうちょっとした手作業。刺繍とか……」
「じゃあ、もしかしてその頭飾り、お母様が作ったの? ずっと身につけているものね、ホリカ」
「ああ、これはね……」ホリカは輪になって髪を飾る帯に手をやる。「母さんだと思うのだけど、父さんの形見って言われたのよ。父さんのために、編んだのかしら?」
「きゃっ、素敵! お父様への愛のプレゼントなのね! ああん、いいわあ〜!」
ファスラはうっとりと瞬くと、ホリカの髪飾りを見つめた。白い布地に、濃い黄色と赤に染めた糸で交互に花の模様を刺繍した、かわいらしいデザイン。
「お父様、お花が好きだったのかしらね……? この赤、茜かしら。お母様、染物もされたの?」
「ええ、染めて、こうやって模様を織り込むのが得意だったのよ。これは、すごくシンプルだけど」
「色が鮮やかで素敵だわ! ……あっ、そういえば昨日キレスが来たでしょう? そしたらソークにね……ね?」
ファスラがポーチへ目配せすると、糸をつむいでいた手を止めて、ソークが少しはにかむように笑って見せた。
「あら、また何かもらったの?」
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき