睡蓮の書 二、大地の章
中・疑い・2、女神たち
月神キレスは、中央神殿のそびえたつ塔門を見上げた。
前代表のジョセフィールから、代表の印を結んでいれば神殿の入り口はおのずと開くと聞かされていた。が、ひと月前ここに来たときに、どうやっても開かなかったことが思い出されたため、ぴっちりと閉じた扉をしばらく疑いのまなざしで観察し、やっと、それでも半信半疑で、手を触れた。
強固な結界が後退し、扉は普通に開いた。神殿内に入り、前庭を進みながらも、キレスは因縁をつけるように扉を振り向きふりむき歩いていた。
「キレスさん」
白の衣を、走りにくそうにぴっちり身体に巻きつけたカムアが、神殿奥から姿を現した。グレーの目が丸く見開かれて、どうかしたんですかと語るので、キレスは少し面倒そうに息をついてから、
「なんか、代表だから報告しなくちゃなんないんだとよ。えー、と。あのラアとかいうガ……太陽神は?」
ガキを太陽神とわざわざ言い換える程度の配慮はできるらしい。けれどカムアは、そんなことには頓着せず、それどころか少し後方を気にするようにちらと見てから、
「僕が、承ります。これでも、補佐ですから」
「あー。でも、神王にちゃんと伝えろって言われたし」言いながら、キレスはカムアを通り過ぎる。「そこにいんだろ?」
「キレスさん……っ」
キレスは大股で列柱の間を進んでゆく。こんな時に限って律儀にならなくても。カムアは慌てて追いかけた。
ラアは中庭にいた。正確には、列柱の間から中庭へ開いた戸の下に座り込んで、こちらに背を向けていた。背は影に浸かったまま、東からの光を体の正面に受け、その髪は琥珀色に透けている。
「おい」その背に、キレスは言葉を投げつけた。「シエンのやつが、きのう人間界に降りて、北神と争ったんだとよ。ジョセフィールのやつが、伝えとけって言ったから、来た」
返事はなかった。
聞こえなかったはずがない。無視されたと感じたキレスが、むっとして何か言いかけたとき、
「……うん」ラアはいつもの彼らしくない、ゆっくりとした動作で髪を揺らし、やっと、顔を上げた。「そうみたいだね……」
そうしてラアは、のろのろとこちらを向く。無表情にまたたき、その目に一度だけキレスを映した。
「夜も、争ってたね。シエン、怪我したんじゃないかな……。地属のエネルギーが、なんか不安定な感じだから」
ラアはぼんやりと、立ち並ぶ柱のあいだに視線を置く。その瞳には覇気がなく、いつも分かり易いほど見せる感情はすっかり息を潜めている。
その様子に不安をかきたてられたのか、キレスは思わずたずねていた。
「あいつの怪我……ひどいのか」
ラアは答えなかった。かわりに、首をゆっくりと回して、キレスの後ろをみつめる。
つられて振り返ると、前庭をこちらに歩いてくる人影が見えた。……西の代表、天空神ホリカだった。
ホリカは揃ってこちらを見つめる不安そうな表情に、彼らがシエンのことをすでに聞き及んだと知って、自分から話を切り出した。
「弟のことで心配をかけて、ごめんなさい。ヒスカに処置してもらって、今は西にいるの。命には別状ないわ。このまま、西に住まわせるつもりよ」
「西、に……?」
つぶやくように声したのは、キレスだった。思いよらなかった様子で瞬く。
「ええ。……いい加減、西の代表も代わってほしいのよ」
そう言って、ホリカは笑った。普段と変わらない笑顔だった。それに励まされたように、カムアは表情を緩める。
「それじゃあシエンさん、西の代表になるんですか」
「次の定例議会までには代わるつもりよ。そのときには、本人にちゃんと出向かせるから」
もう一度、今度はウインクまで加えた笑顔を見せ、報告に来ただけだからと、ホリカはもと来た道を戻っていった。
「人間界……しばらく降りないようにしたほうが、いいかもしれませんね」
カムアがぽつんと言うと、ラアは背を向けたまま小さく、うん、とだけ応えた。
側にいたはずのキレスは、いつの間にか姿を消していた。ホリカの後ろ姿が、だんだん遠くなる。
カムアはそっと息をついた。
年が明けたばかりだというのに、いろいろなことが重なってしまった。
ラアは相変わらず、東から注ぐ陽光をただぼんやりと受け止めていた。群青の空を映しているかと思えば、時々、中庭の石畳に目を落としていたりする。
彼なりに、気持ちを整理しようとしているのだろう、カムアはそう受け止めていた。不安や悲しみや、言葉にできないくらいの感情をたくさん抱えて、けれどラアは、そうしながらでもさまざまな力を感じ取っている。西部砂漠の一端、しかも地の底にあるという地属の聖域にまで、意識して力の動きを読み取っていたわけではないのだ。それはきっと、ごく自然に。
広い範囲を捉える力。それは、彼自身の意識や感情を超えたものなのだろう。そして捉えるのと同じように、自然に、彼の力はそれらの範囲に影響する。
その力が、もう一度、輝くように。
カムアはそう、祈るように、目を閉じた。
「なあ……シエン、どうなんだよ」
ホリカが塔門を抜けると、そこへ待ち伏せていたようにキレスが声をかけた。
「……まだ、目を覚ましていないわ」
視線を落とし、ホリカが答える。けれどすぐにまた笑顔を浮かべた。
「でも、明日には起きるんじゃないかしら? あの子、タフだから」
自分自身に言い聞かせるように明るく言い放つと、彼女は軽やかに風を纏った。
「また西にいらっしゃいな、キレス。みんな、あなたが来るのを楽しみにしているわ!」
羽のように空を渡るホリカを、キレスは無言で見送っていた。
*
西の神殿は、西方に広がる砂漠の中、オアシスに建てられている。
南と同じように、周壁の代わりに木々が神殿を広く囲っているが、様子がまったく違って見えるのは、それが椰子の林だからだ。
青い湖を囲む土は肥沃で、そこには多くの植物が育っていた。亜麻の花畑にはかわいらしい紫の花があちらこちらでゆれ、よく見なければ花だとは分からないくらい小さな薄緑の花もあった。あおい実の底を赤く腫らして、もう食べごろだと知らせるイチジクはもちろん、甘い香りを漂わせる豆鞘をぶら下げた木や、連なる緑や紫の宝石を誇らしげに輝かせるぶどう棚まで。
その、ぶどうの房を三つ、四つと摘み取る若い女神。ふっくらとした指からあふれる房を、手にした篭へと移す前に、ひとつぶ、口の中にぽんと放りこむ。
「んっ、美味しい! 食べごろだわ! あなたも食べてごらんなさいよ、フエ」
言いながら、もう一粒、二粒と止まらない。
側でハーブを摘んでいた、フエと呼ばれた小柄な女神は、黒い瞳をゆっくりと瞬いて、小さな声で言った。
「……そんなに食べて、だいじょうぶ……?」
「だって、美味しいんですもの! 今年の出来はすばらしいわ! ……ああん、はやく帰ってこないかしら、私のカナス!」
ふくよかな身体に似合う、よく響く声。それはポーチで亜麻糸を紡いでいた少女ソークにも届いた。
ひと月前に人間界で負った目の傷はもう跡形もない。その明るい茶色をした瞳を細めて、ソークはにっこりと愛らしい笑みを浮かべる。
「ファスラさんの作るワイン、きっと楽しみにしてるわ、カナスさん」
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき