睡蓮の書 二、大地の章
「お前、キレスとゲームするのもいいが、たまには西にでも行ってみろ。仕事も遊びも部屋に篭りっぱなしじゃ不健康だろう。あそこはいいぞ、空気が華やかで」
ヤナセがにやにや笑んで見下ろすと、ケオルは避けるように視線を遠くに移す。
「そりゃ、崖沿いにある東に比べれば、西は四方が開けて明るいし、湖があるから植物もよく育つんだろ」
「おや、はぐらかしたな。なんなら、私が連れて行ってやろうか?」
ははは、と笑いながら、ヤナセはケオルの背を豪快にたたく。ケオルはむせながら、
「いや、それは、ちょっと。俺、やることが……」
「忙しいか。お前、そればかり言ってるぞ。
……まあいい、シエンも西に移ったことだし、以前よりは行き易いだろう。また行ってみるといい」
ほとんど逃げ腰だったケオルが、ぴたりと止まり、振り返る。
「――シエンが、西に!?」
思わず声をあげていた。昨夜のことを思い出し顔が強張る。あれほどの傷だ、ふつうは治癒女神の住まうこの神殿で経過をみるだろうに、どうして。それに、なぜ南でなく西なのか。
ケオルの言葉を批判ととらえたのか、ヤナセは困ったように首を傾げ、
「このままおいていては、シエンがまた北神と争って怪我をするかもしれないと、ホリカが不安がってな。それならいっそのこと、西において監視すればいいと言ってやったんだ」
肩の力を解いて、ケオルはうなずく。なるほど、ヤナセが朝から出かけていたのは、西にシエンを運んでいたためだったのだ。
……西の神殿に住まう天空神ホリカが、弟シエンを連れてここにやってきたのは、まだ夜の刻の始まりのころだった。ヤナセの妻、治癒神ヒスカは、一も二もなく治療を開始したが、施術は八時間にも及んだ。
シエンはかなり危険な状態だった。ヒスカは夫ヤナセの力をも借りたが、風属の長であるヤナセの、補助対象の力を数倍にもする効果を用いてさえ、治療が間に合いそうになかった。ケオルとこの神殿に住まうもうひとりの知属神も協力し、やっとの思いで傷をふさいだのだ。
ひどい、傷だった。あれほどの血を、裂けた肉を、生々しい臭いにとらわれるのを、もう長いこと忘れていた。十年前の戦のことは、あまり思い出すことがなかったのに、臭覚が刺激されると記憶まで引き出されるものなのか。
施術中、母親のぬくもりがないことに気付いた医神ヒスカの息子が、大きな声をあげて泣きだした。赤子の泣き声は、こういうときには特に耳障りなものだった。ホリカがあやそうとしたが、母親でないことが分かるのだろうか、声はさらにエスカレートした。脳にわんわんと響き続けるそれはまるで、地下を逃げるとき聞いた呻きや叫び、走っても走っても振り払えずまとわりつくような声――
「ケオル」
ヤナセの声に、われに返る。
「昨晩は疲れたろう。お前まで巻き込んで、すまなかった」
「俺なんかより、あなたのほうが。ヒスカも……きつかったよな」
「しばらく休ませるよ。心配することはない」
ヤナセはひとつ控えめに笑んで、その場を後にする。暗い面持ちでしばらくそれを見送ると、ケオルは奥の池へと向かった。
東に来たのは、知神としての最も重要な仕事を果たすためだった。新年を迎えるたび、彼は東の書物庫の地下にある「予言書」を確認しなければならない。静かな夜にでもと思っていたところであの騒ぎ。結局なにもできなかった。
夜になるまで、ケオルはまた初代の知神ジェフティの書を漁っていた。正直なところ、この戦の最中に過去を振り返っている場合ではないと、今までは考えていた。初代の著作も、術の構造に関するものばかりを調べていて、それ以外を開くことはあまりなかったのだ。けれど、シエンが見つけたあの書に関わり、あれほどの未知の内容に触れた今、その正否を、そこにある意味を、どうしても知りたかった。それは義務感などではなく、おそらく好奇心か、ゲームのような感覚だったろう。解けそうな問題ならば、時間をかけてでも自力で解く。そうせねば、気がすまなかったのだ。
千年前のこと、ウシルの周辺の様子を知りたければ、同時代に生きた者の著作が最も信用できる。その時代に生き、かつ文字を残すことができたのは、自らが文字を生み出したとされる初代知神ジェフティである。しかし、不思議なことに、初代が残した著書の中にはじめの王ウシルや太陽神ホルアクティ、生命神ハピの名が書かれたものは、調べた限り一つも残っていなかった。
その初代ジェフティについて、奇妙な噂がある。
初代が文字を作り表記法を整えたのは、ウシルの死後であったと言われている。だが、あるとき、粘土片に刻まれた文が見つかり、それはちょうどウシルの生きた時代に位置づけられるという。その文は最も古い形式で書かれており、ちょっとした長さだったが、正確に意味がとれた。初代ジェフティの筆跡とは異なるため、同じ時代を生きたヘジュウルのもう一人の弟子、知神セシャトのものである可能性が高い、とされている。
叡智神ヘジュウルの二人の弟子、ジェフティとセシャト。王ウシルの没後に戦が始まると、二人は太陽神側と生命神側に分かれた。神の称号は、初めにその神号を得た者の名をとるので、以降、太陽神側の知神をジェフティ、生命神側の知神をセシャトと呼ぶ。その、初代セシャトの文字がこちら側に残るとすれば、分かれる以前、つまりウシルが生きていたころのものに違いない。
この粘土片について研究した人物は、初代ジェフティについてひとつの疑問を提示していた。すなわち、表記法の確立は今考えられているよりずっと前――ウシル存命中であり、今残る著作以前のものは、初代が自ら処分したのではないか。そうでなければ、ウシルの名が初代の手でひとつも描かれないのはおかしい、と。
考えてみれば、たとえ表記法の確立がウシルの没後であったとしても、初代ジェフティが、この世界を整えた王ウシルや、彼の生み出したもうひとつの世界、冥界ドゥアトについてを一切書き記していないというのは、不自然なことだ。
以前の自分なら、その理由に見当もつかなかったろう。けれど、今は少し違った。この噂を気に留めたのも、そのせいだ。
シエンが見せたあの古い書にあった、生命神が太陽神の兄弟であったという話は、隠されてきた事実なのではないか。初代のジェフティは、やはり意図的にそれ以前の情報を隠匿したのではないか。その理由はもちろん、太陽神の正当性を強調するため――。
ありえないとは言えない。文字は書く人自身のものであり、そういう性質を持ちうる。
だが事実、生命神が太陽神の兄であったとしても――正妃の子ではなかったに違いない。そうでなければ、当時太陽神の即位に納得するものがこれほど存在するはずがないのだから。
ケオルはふうとひとつ、ため息をついた。隠されてきたという事実は気持ちのいいものではない。そうまでして自身の正当性を強調する必要が、どこにあったのだろう。
(まあ、昔のことは、どうでもいいけどな)
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき