睡蓮の書 二、大地の章
開かれた新緑が揺れる。――やはり、兄弟だという話は本当だったのか……?
もちろん、セトの話をすべて鵜呑みにするつもりはない。都合よく捻じ曲げられているのだろう、だが……。
少なくとも、その事実が隠されてきたのは、確かだ。
いったい、なぜだ?
「大罪は繰り返される」声高く、セトは続けた。「弟による兄への裏切り――あってはならぬ大罪を、あろうことか地属の内で犯すとは……恥ずべきことだ。まったく、恥ずべきことだ!」
高く引き上げた顎から見下すセトの瞳は、侮蔑の色を濃く浮かべシエンを映す。
シエンは訝しげに眉をひそめた。自分に向けられたらしいセトのその言葉、それは何を示しているのか……?
地属の兄弟。思い浮かぶのは、キポルオとセトしかない。しかし弟が兄を裏切ったとするなら、それはセトにとっては逆であるはずだ。
(何が、言いたいんだ……)
困惑よりも、より大きな不安が――理由なく、それは得体の知れないものを恐れるように、胸のうちに広がる。
「意味が取れんか。……まったく、どこまでもめでたい奴だな、シエン。己の父が犯した罪を、まさか知らぬわけではあるまい」
“父が犯した罪”
(何の、ことだ……)
“弟による兄への裏切り”
(父さんの、裏切り? 父さんの、……兄……?)
視線が宙をさまよう。
セトの口から繰り返し聞かされた、裏切り者という言葉。
父の、兄弟……?
意識していなかった。まったく、意識できなかった。――だが、そうだ。そうなのだ。
セトの言葉が、まっすぐにひとつの答えを指し示す。そこに至る道を、寸前まで、自分は確かに辿ることができたはずだった。
しかし、それが確かに違いないと思える今になってさえ、最後まで答えを引き出すことができない。手が届こうというところで、自ら道を塗りつぶし、ふりだしに戻ろうとする。
「くくく……ははははは!!」動揺を隠しきれないシエンの様子を嘲るように、セトが声を立てた。「傑作だなシエン……! 貴様は己の父親についてさえ、何も知らんのか……!!」
身体を仰け反り、心底可笑しいというように。
「ならば教えてやる。
貴様の父は、先の『大地神ゲブ=トゥム』たるわが父の、弟だ」
大きく見開かれる、新緑の瞳。
シエンの中で何かが音を立てて弾け散る。
気付くべきだった。キポルオが北神であると聞いたときから、その可能性を疑うべきだった。
いやそれよりもずっと前に、知るべきだったのだ。
そうだ、確かにキポルオは従兄だった。そして、セトも、だ。
――父は、北神だった。
疑いようもない、確かにそうなのだ。
地属の神位序列。キポルオと同じ、つまりは地属の第一級という高い神位が、太陽神側に自然に現れるはずがない。
最高位を兄が、弟がそれに次ぐ位を得た。それは地属の序列の理にかなっているではないか。
なぜ、今まで気付かなかったのか。なぜ――
「わが父の信頼を裏切り、貴様の父は太陽神側の女と交わった。あってはならぬ大罪だ。処刑されて当然の身――しかしそれだけでは済まなかった。あろうことか、太陽神側にその血が残されたのだ!」
罵声を注がれるがままに、シエンは焦点の合わない目をしてその場に立ち尽くす。
「貴様の父の愚かな、利己的な行為がすべてを狂わせたのだ。――見よ! この場の精霊たちの混乱を!! 偽りの力を示し、理を狂わせる存在、それが、貴様なのだ!」
セトの手に大地の剣が握られる。隙だらけだった。
頭上に振り上げられた大剣の影にハッと意識を取り戻し、一撃目はかろうじて空を切る。
「まだ、生き抜く気か……っ!」
シエンの反応は明らかに、いつもの冷静さを失っていた。散りぢりの意識、敵を捉えることのない目。
「その存在の恥を知れ!!」
セトの声さえ、耳に入ってこない。身体は今までしてきたように、自身をかばって剣を避けるが、ぎこちなく、頼りない動きだった。左腕に負う怪我のせいではない。シエンはどこか、それを避ける必要はないと身を縛る意思をも、感じていた。
「死・ねええぇ……!」
繰り出される刃が顔を掠める。その衝撃が肌を切り、赤い液が滲み出ると、腕に点々と滴った。
その赤が、鮮やかな二つの緑玉に映りこむ。シエンはまるで引き込まれるように、それを見つめた。
――血、だ。
この身に流れる、赤い血液。自身を形作り存在させるこの、肉体をめぐるもの。それは、父から継いだ地属の血。
北神の、血……。
セトの刃が振り下ろされるのを、感覚が遠く知らせる。意識を戻したとき、黒の刃先が大きくその瞳を覆っていた。そして……、
間に合わなかったのか、動けなかったのか、分からない。
黒い刃は、右太腿を真っ直ぐに貫いていた。
「ぐぅ……ああああぁ…っ……!!」
仰け反らせた喉から押し出されるように声が漏れると、セトの口元がゆっくりと持ち上がる。
黒い刃が引き抜かれ、鮮血が飛び散る。
太腿を縦に真っ直ぐ裂いた傷は、ぱくりと口を開いて白いものを覗かせる。腰布の白が、見る間に鮮やかな赤に染め上げられた。
そこから意識も何もかもが流れ出たかのように、シエンはその場に崩れる。鮮血の池にひざを折り、そのままくしゃりと、無造作に投げられた人形のように、自らの血の中に身を横たえた。
静まり返る。精霊たちも息を潜め、二人の主の様子を遠巻きに見守るばかり。
セトの瞳に湛えられた憎悪の炎は消えてはいなかった。むしろより強く灯されているようでもあった。
「……汚らわしい」
付着した鮮血を払うように、剣を一振りし、地に突き刺す。
そうしてセトは僅かに身をかがめ、血の池に沈んだ男の髪をつかむと、ぐいと引き上げた。
細い、鳶の羽のような色を呈したその髪は、風属の血を示していた。
太陽神側の、女の血だ。
「この首、切り落としてやろうか」
冷ややかに、赤く染まった男の顔を見下ろす。目は固く閉じられ、微動だにしない。血の滴る音が、洞窟内に響いた。
セトは剣の柄を握る。赤い、血と同じ色をした柄。
「……終わりだ」
刃が地から引き抜かれた――と、そのとき、
「――!?」
どこからか風が巻き起こる。それは瞬時に洞窟内を満たし、縦横無尽に吹き荒れた。
(なんだ、これは……っ!)
幅広の刃を盾に意識を広げる。――この力、地属のものではない。
(バカな、聖域に他の属性が踏み入ることなど……っ!)
ありえないことだ。セトは困惑を隠せない。
(何者だ……いったいどうやってここへ――)
「!!」
一瞬、近づく何者かの気配を捉える。しかし身を翻したときはすでに遅かった。シエンの姿が消え去っている。
(しまった……!)
不意を突かれた。身を危ぶむほどの力ではなかったが、予測不能の事態だった。気が動転して、敵の気配を捉えることもままならなかった。
「ふざけた真似を……っ!」
ぎりぎりと歯を軋ませ、セトは怒りに任せて血の池に剣を突き立てる。固い岩盤の砕ける音が洞窟内にこだまする。
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき