ロロと12人の妻
ロロの声に不安はありませんでした。覚悟を決めているのか、それとも、自分の生命に対する関心がなくなってしまっているのか。わたしは彼の手からそっとナイフを取り上げました。
「行きなさい」
「でも……」
「わたしはだいじょうぶ。襲われ、抵抗するうちに誤って刺したということにすれば、罪には問われませんから」
夫はロロを可愛がっていますが、それだけに彼には敵が多く、グレアムを殺したとなれば、制裁を求める声を抑えられなくなるでしょう。なおも立ち去りがたいという素振りを見せているロロをなかば強引に小屋から追い出すと、わたしはナイフの柄をつよく握りしめました。そっとグレアムの死体を見下ろします。仰向けに倒れた彼の顔は血に塗れ、目は大きく見開かれていました。顔を背け、目を閉じました。大きく深呼吸すると、わたしはナイフを持ったまま全力で叫びました。
叫び声を聞いた使用人がかけつけてきて、死体のそばで震えているわたしを見つけました。ろくに調べられもせず、わたしは正当防衛ということで、無罪放免になりました。以前からグレアムがわたしを下卑た目で見ていたのは、屋敷中のだれもが知っていることでしたし、彼は自らが意識していたほど、夫にとって重要な存在ではなかったのです。
しかし、ヒルダだけはちがいました。彼女は恒例のお茶会にも顔を見せず、わたしと顔をあわせることもなくなりました。おそらく、わたしが口を閉じていることを不審に思っているのでしょう。
彼女のことを夫に話す気は、わたしにはありませんでした。証拠はなにもないし、不必要に事態を膨らませれば、ロロがグレアムを殺したことが知られてしまうかもしれません。しかし、そういったところで、ヒルダは信じないでしょう。わたしの口を塞ぐため、もう一度命を狙ってくるのでは。そう思うと、グレアムがいなくなった今でも、わたしは恐怖で夜も眠れなくなるのでした。
「ヴェラ様」
突然、部屋のドアが叩かれ、わたしは飛び上がるほど驚きました。
「ヴェラ様。いらっしゃいますか」
メイドの声です。わたしはベッドを出て、そっとドアを開けました。
「おやすみのところ、申し訳ございません」
「いいのよ。どうしたの」
「それが……」
メイドはハンカチを握って口元に圧しあてた。一度息を吐いてから、いった。
「今、お部屋に行ってみたら、ヒルダ様が倒れていて……何度声をおかけしても、動かないんです」
「なんですって?」
なにかたとえようもない嫌な感覚が脊椎を這い登ってくるような気がして、わたしはその場に立ち尽くしました。
仰向けに身を捩るようにして倒れていたヒルダは、すでに絶命していました。胸には刺し傷があり、殺されてからまだそれほど時間はたっていないということでした。
わたしとヒルダの間の確執は屋敷中が知るところでしたが、疑いの目を向けられることはありませんでした。グレアムの死をきっかけに、わたしに対する締めつけはさらに厳しくなっています。ヒルダが殺されたと思われる時間にも、わたしのそばには数人の見張り役とメイドがいて、彼らの目を逃れてヒルダを手にかけることは不可能でした。
夫はヒルダの死を惜しみましたが、悲しんでいるようには見えませんでした。クリスティーンが身ごもっていることがわかったからです。夫にとって、女は跡継ぎを産むための機械にすぎません。11人も代わりがいるのです。ひとりがいなくなったところで、打ちひしがれたりはしません。狩りに向かう夫の背中をバルコニーから見下ろして、わたしはため息をつきました。
振り返ろうとして、硬直しました。いつからそこにいたのか、ロロが窓の脇に立って、わたしを見つめていました。
「こら、おまえ、どうやって入ってきたんだ」
見張り役の男が飛んできます。わたしは手を挙げて彼を制しました。
「いいのよ。彼と話したいから、外にいて」
「しかし……」
「なにかあれば呼びますから」
見張りを追い出してしまってから、わたしはゆっくりとロロに向きなおりました。
「あなたなのね」
ロロはなにも答えず、ただじっとわたしを見つめています。深く澄んだ、しかし鋭い眼差し。それは戦士の眼でした。下男としてグレアムに厳しく扱かれ、屈強な男たちに紛れて生活しているうちに、生まれ持った戦闘本能が目覚めたのでしょう。
変わり果てたヒルダの姿を見た瞬間、わたしは直感しました。彼がやったのだと。そして今、こうして対峙して、直感は確信に変わっていました。
「なぜなの」
ロロは銅像のように立ったままです。わたしは彼との間にある距離を守りながら、そっと室内にもどりました。冷たくなりはじめた風が、わたしのローブの裾を乱しました。
「あなたを殺そうとしていました」
ロロが抑えた声でいいました。
「知っています。でも、あそこまですることはなかった。彼女にも守りたいものがあったのですから」
「あなたはなにもしていません。わたしが勝手にやったことです」
ロロは早口にいいました。故郷の言葉。わたしもおなじ言葉でいいました。
「わたしを救ってくれるのね」
「我々家族はお父様に何度も救っていただきましたから」
「ありがとう」
ロロは深く頭を下げて、後退しようとしました。窓の外を見つめたまま、わたしはいいました。
「ロロ」
「はい」
「もうひとつ、聞いてほしいことがあるの」
「なんなりと」
わたしはゆっくりと視線をめぐらせました。呟いた言葉は、夫が兎を仕留めるために放った銃声に掠れて消えました。しかし、ロロは無言で頷き、きたときとおなじように気配もなく出て行きました。
夫の無邪気な声が森の木々に反響しています。わたしはバルコニーの手すりをつよく握りしめました。
翌朝、犬を散歩させようとしていた世話係が、中庭でクリスティーンの死体を見つけました。花壇に上半身を捻じこむようにして倒れていたのです。医者や兵隊がきて調べていきましたが、けっきょく、寝室の窓から誤って落ちた転落事故ということになりました。
それを境に、屋敷では妻たちが被害者になる事故が頻発するようになりました。毒草を食べてしまったもの、散歩中に足を滑らせて崖から落ちてしまったもの……一年とたたぬ間に、12人いたスケイルズ家の妻は、8人にまで減っていました。
しかし、それほど短い期間に事故がつづけば、当然、不審に思われます。事件が起きはじめたのはロロがきてからです。彼は夫からの寵愛を受け、屋敷内を自由に動きまわることができるのです。ロロが妻たちを殺したのではないかという噂がまことしやかに流れました。兵士や執事たちは、ロロを追い出すようにと忠告しましたが、夫は鼻にもかけませんでした。しつこく迫った老執事などは、逆に暇をもらって屋敷を出て行くことになりました。
4人目の妻が死んだあと、わたしは正室の部屋にもどされました。夫がどれほどロロを気に入っていようとも、彼に子を宿すことはできません。体裁上からも、わたしを邪険に扱うわけにはいかなかったのです。
「あなた」
自室のソファにゆったりと背中を預けて短剣を磨いていた夫が、億劫そうに顔を上げました。わたしのシルクのロングドレスを見て、おもしろくもなさそうに鼻を鳴らします。