ロロと12人の妻
テーブルの端につかまりながら必死に喘いでいたヒルダが、ヒステリックに叫びました。
「わたくしをこんな目に遭わせておいて、なにもしていないというの?」
「ヒルダ……」
「さっさとその子を連れて行って!」
ヒルダに命令され、グレアムがロロの髪をつかんで立たせます。ロロはわずかに顔をしかめただけで、呻き声ひとつ洩らしませんでした。
「乱暴はやめてといってるのよ」
グレアムの前に立ちはだかると、彼は赤ん坊でもあつかっているかのように、いかにも憂鬱そうな顔でため息をつきました。
「なら、こちらもいっておきますがね、ヴェラ様。こいつの教育は、このわたしに任されているのです。それに、我々は、そもそもあなたの命令を聞くためにいるのではありませんよ」
「わたくしはティモシー・スケイルズの妻ですよ」
「ヒルダ様だってそうです。しかも、彼女にはお子様が」
わたしが言葉に詰まるのを見て、グレアムは嫌らしく笑いました。わたしのほうへ顔を近づけ、きつい口臭を漂わせながら、いいました。
「どうせあんたは棄てられる。そのときは、おれが面倒を見てやってもいいぜ」
あまりの屈辱に、目が眩みました。顔を強張らせているわたしに向かって、もう一度にやりと笑ってみせてから、グレアムはロロの体を引きずるようにして、連れて行ってしまいました。
「ヴェラ様……」
クリスティーンが怯えた表情で身を寄せてきます。その不安げな表情は、かえってわたしに冷静さを取りもどさせました。
「だいじょうぶよ」
彼女の肩にそっと手を置いて、テーブルのほうに視線を向けました。まだ混乱してなにごとか囁きあっている女たちの間から、ヒルダが燃えるような目でわたしをにらみつけていました。
その夜、わたしはなかなか寝つくことができませんでした。天井を見上げ、何度も寝返りを打っていると、外でなにか音がした気がしました。
「だれ?」
返事はありません。わたしはそっと枕の下に手を差し入れ、護身用にひそめてあるナイフに触れました。
「だれなの?」
「わたくしですわ」
カーテンに女の影が映ります。わたしはほっと息をついて、ナイフを元の場所にもどしました。
「ヒルダ。どうしたの、こんな夜更けに」
ドアを開けると、ネグリジェ姿のヒルダはゆったりと微笑みました。昼間のことは、もう忘れていうようでした。
「ヴェラ様にお話があってまいりましたの」
「わたくしに?」
わたしは戸惑いました。夜中に侍女もつけずにというのは、ふつうではありません。それに、なにかたとえようのない嫌な予感がありました。
「悪いけれど、明日にしてちょうだい。今日は疲れてるの」
「今でなくてはだめなのです」
「なぜ?」
わたしの問いに、ヒルダは声を顰めました。周囲を気にする素振りを見せながら、わたしに囁きかけます。
「実は、あのロロという子のことですの」
ロロは別室に軟禁されていました。主人の妻を傷つけようとしたのですから、本来なら殺されるか、寛大な処置としても追い出されているはずでしたが、夫がそれをゆるさなかったのでしょう。
「ロロがどうしたの?」
「ここではお話できません。場所を変えて、ふたりきりで」
気は乗りませんでしたが、しかたなく、わたしはヒルダとともに廊下を抜けて、屋敷の奥へ向かいました。中庭に出て、物置代わりの小さな小屋に入ります。ふだんは鍵がかけられているはずでしたが、なぜかそのときは開いていました。不審に思いましたが、ヒルダに急かされて、なかに入りました。
小屋のなかは黴臭く、真っ暗でなにも見えませんでした。
「ヒルダ。明かりを……」
振り返ると、いつの間にか扉が閉められ、小屋は正真正銘の暗闇になっていました。
「ヒルダ……」
不安になって足を踏み出しかけ、なにかにぶつかりました。大きな壁のようですが、奇妙にやわらかく、べとついています。
おかしいと思ったときでした。突然壁がわたしのほうに倒れてきて、わたしは藁の上に仰向けに倒れました。途轍もない重量に、呼吸ができません。叫ぼうとすると、口を覆われました。
壁だと思っていたのは人間でした。体つきの大きな男です。荒い息が頬にまとわりつき、わたしの全身を鳥肌が覆いました。
「おとなしくしてるんだな、ヴェラ様よ」
「あなた……」
言葉はまるで言葉にならず途切れました。脇腹のあたりに、冷たい感触。ナイフの刃が、寝着を切り裂いて、わたしの肌を這いまわっていました。
恐怖に縮こまって震えるわたしの上で、グレアムが低く笑います。
「あんたのことは前から気に入っていたんだ。あの旦那に相手にされなくて、欲求不満だろう。これからは、おれが可愛がってやるからな」
わたしは渾身の力で身を捩りましたが、体格のいいグレアムに抑えつけられていては、逃げるどころか、体を動かすこともままなりません。しかも、ナイフまでつきつけられているのですから、いわれるままじっとしている以外、わたしにできることはありませんでした。
「やめて!」
「往生際が悪いぞ」
「夫にいいますよ!」
「やってみろ。あんたが棄てられるのがすこし早くなるだけだ」
脅迫はグレアムのほうが上手でした。彼の手が触れたと知れば、夫はますますわたしを遠ざけるでしょう。
体から、抵抗する気力が抜けていくようでした。頬を涙が滑り落ちていきます。グレアムの脂で湿った顔が、寝着の隙間からわたしの胸元に圧しつけられます。
おぞましさに叫びだしかけたときでした。小屋の扉が勢いよく開いて、だれかが飛びこんできました。
扉の音に気づいたグレアムが素早く振り向きます。その大きな体が視界を塞ぎ、侵入者の姿は見えませんでした。
グレアムがなにかを叫び、ふたつの影がもつれあいました。暗闇のなか、揉みあい、殴りつけるような音が響きます。
わたしは壁に体の片側を圧しつけるように小屋の隅で縮こまっていました。やがて、低いうめき声とともに、ふたりぶんの巨大な影は動かなくなりました。
影がわかれて、ひとりがゆっくりと立ち上がります。グレアムか、それともあとから入ってきただれかか、すぐにはわかりませんでした。
「こないで!」
影が近づいてくる気配がして、わたしは思わず声を上げました。
「ヴェラ様」
荒く呼吸をしながら、掠れた高い声。ロロが心配そうな目でわたしを見下ろしています。顎や鼻から血を流し、脚を引きずっていました。グレアムと格闘したときに傷を負ったのでしょう。
わたしは咄嗟にグレアムのほうを見ました。グレアムは床に倒れ、動きません。
「彼は……」
「死んだようです」
ロロは無感動にいった。手にはグレアムのナイフを握りしめています。
わたしは呆然と少年のあどけない顔を見つめました。グレアムは夫の軍を率いる最強の猛者です。いくら油断していたとはいえ、子ども相手にあっけなく殺されてしまうなんて、信じられませんでした。しかし、闇のなかで鈍く輝くロロの目は、それを信じさせる力を持っていました。やはり彼も、ブリュースターの血を引いた戦士なのです。
「わたしはどうなりますか」