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海の向こうから

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 しゃべる度に通訳してくれるイリーナさんの言葉が出ない。私は不思議に思って顔を見ると、イリーナさんは難しい顔をして明らかに困った様子だった。重い空気が周囲を包む、私も何を言えばいいのかわからなくなった。
「私は日本語でどう言ったらいいかわかりません」
「いいんだ。話してくれたらいい」
 諭されるようにサハロフさんに肩を叩かれ、イリーナさんはゆっくりとさっきの言葉を日本語で答えてくれた。先生も、私も、変わらない空気にさらに重いものを感じた――。

 サハロフさんは当時からフォークシンガーだった。しかしそれは仮の姿だった。当時のソビエトでは芸能活動をできるのはごくわずかで、その理由は活動のために外国に行けるということだ。情報が統制された国で外国に行ける事は希なことで、政治家や芸術家、スポーツ選手といった特権がある者くらいだったようだ。その立場を利用してスパイ活動をするのが本当の姿だったのだ。
 
「ナジエージタ号の乗客の目的は亡命だった」
「亡命?」
 分からない単語を繰り返すと先生が横から注釈を入れてくれた。
 亡命というのは、母国を捨てて他国に庇護してもらうことだ。
「社会主義に耐えられずに国を出る者が当時は少なからずいたんだ」
説明が複雑で難しかったけど、要約すれば当時のソ連は自由が少なく、西側の国が自由に見えた、そしてそれを求めて国を飛び出す人がいたと言うことだ。 
「事前に情報を得た私は芸能活動のため日本に向かう船を用意し、亡命者を乗せた。そして日本の領海に入った貝浜沖で作戦を実行したのだ」
作戦というのは船を沈めることだ、そんな残酷な作戦の内容を聞くことなど、ここにいる誰もが聞くことができなかった。聞かなくても結果は当時の新聞などに書かれている。
「自らは助かるように沈没前に先に船を離れ……」サハロフさんは私たちの目を一人一人の見て話を続ける「そして私は日本の漁船に救出された。当時敵国の人間であったのに、ここの人は私を助けてくれたのだ」

 私たちはそれ以上の説明は聞かなくても分かるし、聞くと耐えられないのでもう聞かなかった。通訳をかって出るイリーナさんも辛い表情を浮かべて下唇を噛んでいた。
「それって、酷くない?」
「麻衣子さん。今はサハロフさんの話を聞こう」
先生は私が話そうとしているのを止めて、イリーナさんには訳さなくていいと首を横に振って伝えた。
「帰国後私は頭が何度もおかしくなりそうになった。懺悔した、自殺も考えた。しかし、周囲に止められそしてソビエトは崩壊し、ここへ戻り懺悔をし礼をするために今まで生きることで償ってきた。長い時間を使ってしまった。あの時、私も貝浜に沈んでいたのだから」

 うつむき加減の先生の首が上を向いた。その様子を見て私もその意味が分かった。
「サハロフさん、さっき自分が助かるように作戦を……」
同時に話したのは先生とイリーナさんだった。翻訳する必要がないと思ったのは、私も同じことを思ったからだ。
 そして二人の話を途中で手で制するサハロフさん。深い眉間のシワをさらに深くさせて両方のこめかみを手で押さえた。
「私は、裏切られたのだ」
 サハロフさんは大きく溜め息を吐いた。
「作戦では助かる予定だったが、実はそうでなかった――」
「じゃあ、サハロフさんも本当は?」
「そうだ」
 横で聞いていた、サハロフさんと同じような年で同じような髭を蓄えた男の人が横から答えてくれた。
「一人泳いで避難していたこのひとを救ったのがワシの船だったんだ。あそこからでは普通なら助からん」
「それで、『懺悔とお礼』なんですね」
「そうだ。私は任務とはいえ、酷い罪を犯した。本当は私もあの時沈むべきだったかもしれない――。責めるなら責めても構わない」
 サハロフさんはもう一度大きく息を吐いて私の目を見つめた。さっき言ったことは言葉を越えて通じているようだ。でも、その顔を見るとそんな事をするような人には見えなかった。

「帰国した私は、一つの曲を書いた」
「これが、そうですか?」
 私は白無地のレコードをもう一度サハロフさんに見せた。するとサハロフさんはゆっくりとそれを受け取って何も書かれていない白のジャケットを見つめて大きく頷いた。レコードにキリル文字でかかれた日本の地名、今ここでつながった。
「しかし、本当のタイトルと歌詞は抹消された」
「それが『カイノハマ』ですか……」
 先生が問い直すともう一度頷いた。
 命からがら助けられ戻った祖国、そこで書いた歌は無惨に消された。この前ロシアの人が歌っていた歌詞と明らかに違う部分があることは分かったけど、その理由が聞きたい。
「海に投じたのは発表することがなかった歌詞の歌だ」
 メロディは同じで歌詞は違うということは、歌詞に意味があるのだろう。
「当時のソ連では政治的に良くなかったんだ、おそらく」
先生が私の心を読んで答えてくれた。当時は情報や教育など厳しく統制されていたのだった。
「じゃあ、元の歌詞はどんなだったんですか?」
 サハロフさんは髭を引っ張って、待ってましたとばかりにかばんの中に手を入れて何かを取りだした。
「ここにCDがある、歌はロシア語だけど日本語の訳詞をつけているので併せて聞いてくれたらいい」
 サハロフさんはプレーヤーをセットし、咳払いをして静かに目を閉じた。そして足でリズムを取りながら途切れ途切れに知っていた旋律が奏でられるとさっきの話し声とは違う奥の深い歌声で、私たちを雰囲気ごと包み込むように歌い出した――。

     立ち上がれ労働大衆よ
     今こそ時代を切り開く時だ

     全ての力を一つに集め
     自由のために戦おう

     一人の力は小さいけれど
     全てが動けば世界は変わる

     おお、平和よ!
     何物にも変えられぬ幸せ

     おお、平和よ!
     何物にも変えられぬ幸せ
  


作品名:海の向こうから 作家名:八馬八朔