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間の悪い私~アマチュア書き手のひとりごと~

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『間が悪い私』

 この気持ちをどのように言葉にしたら良いか、判らないが、とりあえず、いちばんふさわしいと思える言葉で述べてみたいと思う。
 私は自分のことを特に運が特別良いとも悪いとも考えたことはない。しかしながら、十年前に末の子を妊娠中に患った大病も奇跡的といえるほど完治したし、そのときに生命賭の出産になるかもしれないと医師に宣告されたにも拘わらず、順調なお産で終わった。ここぞというときには土壇場で何とかなっているから、やはり恵まれた人生を生きてきたのではないかと思うし、そのことに感謝している。
 ただ、冒頭でも述べたように、これまで生きてきた道を振り返れば、そこまで良くも悪くもなく、わかりやすく言えば、それだけ私の人生が平凡であり、穏やかであったのだろうともいえるし、そのことはまたある意味では間違いなく「幸福」であったはすだ。人生、これだけの年月を生きてきたら、「何事もなく平穏」なのが実はいちばんの幸せだと学ぶことはできる。
 だが、時々、―なんて自分は間が悪い人間なんだろう。
 と、落胆することは結構ある。
 昨夜もまさに、そんな出来事があった。
 私は目標を立てるときは、できるだけ一つに絞らないようにしている。例えば、二つか、三つくらいの大きな目標を立てる。結果的には、その中のどれでも良いから一つが達成されれば良い、くらいに思って努力している。その複数の目標は大体、達成期限は同じ時期に設定しておくことも大切だ。
 そして、目標の中で当然ながら、難易度もつけておく。一つ目は到底実現は不可能だろうというくらいに難しいが、二つ目はやや難易度も下げた目標、三つ目は更に達成しやすいような目標。
 こう書くと何かごまかしのように思えるかもしれないが、高い夢や目標を追い求めるときには、意外にこういうやり方が効果的だったりする。崇高な志や高い目標はけして悪いものではないけれど、達成されなかったときの心のケアが難しい。もちろん、それは自分の実力・努力不足だと諦めるしかないのだが、やはり、人間は弱い生き物だから、「はい、駄目でした無理でした」それだけで吹っ切れるものではないだろう。
 だからこそ、複数の目標を同時に立てて、「その中のどれかが叶えば良し」とするのだ。実は、この複数の目標を掲げて、ここ一年ほど自分なりに力を尽くしてきた。早くも今年の初めにその中の一つは達成されたのではあるが―。
 あろうことか、昨夜、その夢が無残に打ち砕かれた。詳細は控えるが、とにかく、私が目指してきた目標そのものがこの世から消えてなくなるという知らせが入った。
 つまり、私がなしてきたことそのものに意味がなくなってしまうということだ。もちろん、私はそういう考え方は好きではない。たとえ形はなくなっても、一つの目標を目指して努力した自分の日々は無駄であったとは思わないが、やはり、成し遂げた結果そのものが消失してしまうなら、現実としては厳しいことだが、「無意味」に帰してしまうのだろう。
 昨夜はあまりにも突然のことに茫然自失で、何をどうしたら良いかも判らなかった。この一年というもの、自分がいかにその「目標」を心の支えにしてきたかを思い知らされた気持ちだった。けれど、既に公的に決定されたことを私のような一個人の意思や希望で覆すことはできないだろう。哀しく悔しいことだが、決定されたことは現実なのだから。
 これから先、何を支えに生きていったら良いのだろう。絶望的な想いに浸りながら、そんなことも考えた。到底実現も難しい難度の高い目標は、私にとってあまりにも遠すぎる。だが、一夜あけた今朝、心は自分でも意外なほど、すんなりと定まっていた。
―仕方がない。
 この言葉しか浮かばなかった。本当に、仕方のないことだ。これまでの人生にも、こんなことは何度もあった。本を出してくれた出版社が倒産したり、入賞して書籍化が決まった矢先、契約を結ぶ寸前で会社が倒産したこともあった。
 賞状と入賞通知を胸に抱いて、ただひたすらに涙を流したものだ。入賞金なんて要らない、そんなものはどうでも良いから、本を出してくれるという約束はどうなったんだ、やっと入賞したのに、書籍化はどしてくれるんだと、どれだけ涙に暮れたことか。
 同人誌が終刊になったときも、どうして次々と「居場所」や「よりどころ」がなくなるのだろうと絶望の底に沈んだ。
 私という個人の人生を覆すほどのアクシデントに見舞われなかったのはやはり神仏のご加護があったからだと思うが、「書き手」としての私が歩いてきた道程はけして平坦なものではなかったと今なら、はっきりといえる。
 ―やはり、自分には運がないんだ。
 昨夜はつくづくとそう思った。
 小さな夢が一つ叶い、また次の新しい夢に向かって歩き出した矢先の出来事だったからだ。
 しかし、嘆いていても絶望していても、状況は何も変わらない。次のささやかな目標が見つかるまでは、私の力には余るほどの難しい大きな夢だけを目標に歩いてゆかなければならない。
 とはいえ、それも私の運命だし、書き手として与えられた試練であるのだろう。その時その時の自分にできることを見つけて、その中で努力していくしかない。それが人生というものだ。
 諦めずに努力していれば、また、新しい道がおのずと開けることもあるかもしれない。諦めない限り、夢も人生も永遠に続いてゆくのである。思えば、その打たれ強さだけが才能も実力もない私の数少ない取り柄であるかもしれない。
 というわけで、また新しい目標探しが始まった。
 
 書き手の皆さんの中には、もしかしたら私の感じているようなことをわずかなりとも感じていらっしゃる方がいるかもしれない。
 もし、そういう方がこの拙文をご覧になり、
―自分にも共感できる部分が少しくらいはあるな。
 そのように思っていただければ、筆者も救われます。


☆『気持ちを言葉にすることの意味と大切さ』

 先日、突然の思わぬアクシデントに戸惑い、そのときの気持ちを拙文にしてみたら、意外に気持ちがすっきりとしました。これは自分でも想像していた以上でした。その背景には、読んで下さった方がいたこと、コメントを寄せて下さった方がいたことも大きいと思います。
 共感のコメントにとても励まされました。この場を借りてお礼を申し上げます。やはり、同じ書き手ではないと判らないこと、同じサイトに参加する同士であるからこそという部分もあるのかなと手前勝手に理解しました。
 他の有名な随筆家も言っておられましたが、自分の気持ちを文章にしてみるということは、自分自身を見つめ直すということに、とても有意義なのだそうです。進む道に迷ったときは、まず、現在自分が置かれた状況を客観的に見つめ直すことが必要です。そのためには、自分の「今」を言葉にして表してみる。そうすると、今まで混沌としていたものが明確な形を取って浮かび上がり、自分の現状を改めて見つめることができます。
 その時
―ああ、こうだったんだな。