睡蓮の書 一、太陽の章
上・女神の憂い・3「同じ」
枯れた葉のような色をした瞳。鍛え抜かれた肉体。
カナスはその男を油断なく映す。
用いる力を見れば、明らかに地属のもの。生み出された砂の柱は、太く天を突き上げるほどだが、それらの間は通れぬ幅ではなかった。
対峙しているというには遠く、傍観しているというには近い微妙な位置で、男は神権をあらわす聖なる杖さえ手に持たず、ただ薄笑いを浮かべている。
カナスを戦女神「セクメト」と知ったうえで、この余裕。
囲う柱は、実際に女神たちを“閉じた”のではなく、威を示す目的で立ち上がらせたに違いない。この範囲は、男が優にその力をもって制するものである、と。
「真の王たる我らがハピ神の牧場へ、何の用だ?」
北の主神、生命神ハピを真の王と呼び、人間を家畜とみなすその発言が、まったく北神らしい。
カナスは無言のままその目に侮蔑の色を混ぜた。
「まあ、いい。せっかくだ、蛇を可愛がってもらった礼ぐらい、受け取れ」
男がその腕を地へ向ける。
瞬間、カナスは囲う柱の陰を抜け、金の槍を繰り出した。
その手が地につく間もなく、男は翻るとその腕を掲げる。
カナスの目の前に砂の壁が立ち上がり、槍ともどもカナスを呑み込む――かに見えたが、素早い身のこなしでそれを避けると、カナスは槍を軸に跳躍した。
男が指先を軽くひねると、砂の壁が地を離れカナスの視界を覆う。それを払い、カナスの槍はついに男をとらえた。
遠くで見守っていたアスが、ほっと緊張を緩める。
が、しかしカナスはすぐにその槍を引き抜き、まったく別の方向へ駆け出した。
槍で突き刺したはずの男の姿は砂と化して地に崩れ、ちょうどカナスの駆ける先に、一塊の砂が盛り上がる。
力の気配を捉え、金の槍が振り下ろされた。
高い金属音。続いて姿を現した男の手には、ついに神杖が握られていた。
槍が払われたその勢いで カナスは身を崩しかけたが、すぐに体勢を整え、再び槍を繰り出す。
力では劣るものの、スピードではやはりカナスが勝っていた。続けて突き出される槍を、男はその手の杖で受け止めねばならなかった。
一度、大きく振り上げた槍を男が杖で薙ぎ、その衝撃で弾かれたカナスは宙で身を翻すと、
「今のうちに!」短く、アスを促す。
手負いのもの、力を持たぬものを守り戦うことは大きな負担となる。ためらいを消し、アスは娘を抱え、そびえる砂の柱の間を過ぎようと駆け出した。
男がそれに気づかぬはずがない。神杖を地につき立て力を示すと、遠方に見えるアスの前に砂の渦が生み出され、その行く手を阻む。
(させない!)
カナスは地を駆け、槍の丈を生かして男の神杖に一撃加えると、男の背後に回った。
滑り込む勢いで金の槍が繰り出される。
瞬間、岩を欠くような音。それを響かせたのは、男の手にした、杖ではなく、剣だった。
自身の神杖を剣に変え、男はカナスの槍を受け流す。
それは剣というには重々しい、玄武のような重い黒色をした、岩を荒く削りだしたような、幅の広い刃。柄はまるで血の様に赤い。
剣を持ち出したということは、本格的にカナスと交えるつもりなのだろう。
素早く身を引き、カナスは男との間合いをはかった。
こちらの思惑どおり、アスたちへの注意を逸らすことができた。
ただし、油断はできない。男の力は確かに自分を超えており、そのうえ扱うものは剣だけではない。
唯一凌ぐことのできるスピードと身のこなしを、どう生かすか……。
張り詰めた空気の中、男のもつ枯葉色の瞳がいっそう鮮やかに映った。
カナスの中に、一瞬、疑念が生じる。それを隙と見てか、男が一気に間合いを詰めた。
正面から振り上げる剣。カナスは槍を構え、それを受け止める――
と、次の瞬間。信じられないことが起こった。
受け止めたはずの槍が、男の剣によって、断ち切られてしまったのだ。
黄金の槍。力と素早さを象徴する、強き女神「セクメト」の武具。神々の王、太陽神の力となるため与えられたこの槍が。
たった一振りの剣によって、事も無げに。
大きく見開いた目に、枯葉色の瞳と、男の笑みが映し出される。
鮮やかな瞳の色。胸を騒がせるもの。あの大蛇の目も……。
どれも、そうだという証拠は十分にあるけれど、どれも信じられない。なぜなら、それらには確かな矛盾があるから。
(まさか……。でも、そんなはずは――)
その動揺が大きな隙となった。
再度振り下ろされる黒い刃に、気づいたときにはもう避ける余裕もなかった。
とっさに折れた槍で受けたが、止めることもできず、まるで水を切るようにあっさりと通すとそのまま、刃はカナスの右肩をえぐる。
「……っ……!!」
声をこらえ飛び去るが、すぐ地に膝をついた。
押さえる指の間から鮮血はとめどなく流れる。目の前がかすんで見え、四肢の感覚も確かでない。
「心配するな、殺しはしない。礼だと言ったろ、ちゃんと持ち帰ってくれよ」
男は赤の滴る剣を手に、にやりと笑む。
月明かりのみが照らす闇の中で、砂礫を踏む音が秒読みのように響く。しかしカナスにはもう、防ぐ手段がなかった。
右肩の痛みが全身を恐怖で縛る。知らず体が震えている。そうして硬く目を閉じたその時。
カナスと男との間を隔てるように、砂礫の壁がそびえ立った。
男は突然向きを変え、剣を地に刺す。そこからほとばしる“力”が、砂の柱を超え、一点に向かった。
自身の生み出した砂の巨柱をも砕き、襲いかかるその力は、対象を貫いたと思われた瞬間、その一点で四方に散り去った。
同時にそこから、空気中に漂う砂粒が押しのけられるように晴れる。
中心には、若い男神の姿。
鮮やかな緑色の瞳をしたその男神は、手に神杖を握り、じっと北神を見据える。
男神は、カナスのよく知る、南の神殿の住人だった。
アスたちが無事南へ戻り、彼を呼んだのだろう。
「遅かったな、シエン」
北神はにたりと笑う。
名を呼ぶということは、二人は知らない仲ではないらしい。
シエンと呼ばれたその男神は答えず、ただ油断なく敵を映している。
と、突然抑えていたらしい力を一気に解き放ち、その足下から、遠く離れた北神とカナスの位置まで一瞬で、地に力を満たした。
熱はないが、まるで地下に溶岩がめぐらされているのではないかと思うほど、体を通じて然りと、その力の強大さを思い知らされる。
それは急激に北神のもとへ集い、そこから一気に立ち上がると、砂礫をともない、荒波のように押し寄せた。
しかし北神の笑みは消えない。
その手を掲げると、次から次へとなだれ落ちる砂礫の大波が、北神の腕の先から、まるで溶けるように、砂となってさらさらと流れた。
次には北神が地を蹴り、剣を手にシエンに襲い掛かる――と見えたが、途中で身を翻し、その剣で地を突いた。
同じように地に力が満ちるのを感じると、ほぼ同時に、カナスのすぐ傍に砂が立ち上がり、そこからシエンが姿を見せた。
そうして、遠くに見えた彼の姿が、砂の塊となって崩れ去る。
……カナスの中に、三たび湧き上がる疑念。
今度こそそれは、確信に近いものになっていた。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき