睡蓮の書 一、太陽の章
下・花の精霊・5、「嘘だ!」
キレスが月神としての任についたのは、翌晩になってのことだった。
月明かり照らす大河の岸に神々が集う。輝神ヒキイをよく知るもの――中央に住まうもの、東のもの、そして西の代表であるホリカも加わる。
風に葦がすりあう音、書を詠ずる声。そこにときおり、すすり泣く声が交じる。
葬儀は、遺体なき葬送となった。
昨夜、太陽神ラアを連れて戻ったキレスらのうちに、ヒキイの姿がなかったことを、神殿に残っていたカムアもケオルも、問おうとはしなかった。けれどキレスが、彼の葬儀を行う意思を示したとき、シエンやカナスからも戸惑いの声が上がった。
死を受け入れられない。まだ希望が残されていると思った。確かに気配などを感じ取ることはできなかったが、それを死とまでは結論付けられないと思った。目で見なければ納得できない。いや、納得などしたくはなかった。
「人の死を、そう簡単に決め付けるわけにはいかないだろう」
シエンがどこか非難めいた口調でそういった。が、キレスは、
「生きてたら分かる」
ひとこと、冷たくそう言い放つだけで、聞き入れようとはしなかった。
彼がそのような決断をするとき、普通では察し得ない特別な何かを察し、その感覚を根拠にしているのだと、友人であるシエンらは経験的に知っていた。そのため、このときばかりはケオルでさえ、それ以上の追求をしなかった。
自ら断行したわりに、葬儀のあいだ、キレスはどこかぎこちなかった。遺体がないことが関わっているのか――実際、遺体を整え川へ「送る」流れをもつ葬儀に、遺体そのものがないことは、ひどく奇妙に感じられるものだった。
参列者の中に、太陽神ラアの姿はなかった。
北でキレスらと合流した後、その無事を確認したときから、ラアは昏睡状態が続いていた。神殿に連れ帰った後もしばらく、目覚める様子はなかったが、今は確かに目覚めているらしかった。というのは、部屋の戸に閂《かんぬき》が内側から掛けられてあったからだ。
カムアが、葬儀の施行を伝えたはずだ。それでも、ラアは来なかった。
……仕方がないかもしれない。シエンは思った。
ヒキイはラアにとって、おそらく親代わりといえる、大切な存在だったろう。そうでない自分たちでさえ受け入れがたいというのに、遺体もないままどうやって死を理解できよう。
それに……責任を感じているかもしれない。すべてがラアの責任であるとはいえないが、確かに彼のとった行動は軽率だった。その結果であると考えれば、死を悼む気持ちが起こるより前に、後悔の念に強くとらわれているかもしれない。……そっとしておくしか、ないだろう。
(それにしても、あの力は一体――)
あのとき、地の底から突き上げるように起こった“力”。
それは身体だけでなく、精神さえとらえて死へと引きずり込むような、ひどく恐ろしい力だった。その力の存在を認識した瞬間から恐怖が身を縛り、あとは巨大な闇に呑み込まれるような感覚に、なすすべなく立ちすくんでいた。どのような力も……大いなる大地の守りさえ、その前ではいっさい意味をなさないと感じた。
セトと何度も対峙し争ったが、あれほど“死”というものを感じさせられたことはなかった。まるで冥府から流れ出たかのような、禍々しさを感じさせる力。
何があったのか、何が起こったのか。
敵の主神、生命神によるものと考えるのが普通だろう。だが、どうも腑に落ちない。なぜあのタイミングで、突然力が放たれたのか。たった数人の侵入者のために、多くの味方をも巻き込む形で。
(まさか……)
――太陽神ラアの力なのではないか。
それは憶測に過ぎなかった。しかし、その考えを否定するものは何もない。
この少年王に、少なくともシエンよりは長く仕えてきた技神カナスが見せた、複雑な表情。彼女もおそらく、それを疑っているのだろう。
今となっては、あの瞳の奥の黄金も、冥府に住まう魔物のそれを連想させる。
しかし認めたくはなかった。あの無邪気な少年王が、いくら強大な力を秘めていたとはいえ、それがこのような類のものであるとは。
けれどもし、そうだとしたら……。
漠然とした、不安に似た感情が、ぬぐえぬまま胸のうちにわだかまる。忘れようと努めるしかなかった。
*
葬儀の後、カナスはラアの部屋へ向かうと、戸を軽く二度、叩いてみた。
返事はない。部屋の戸に閂は掛かったままだ。耳を澄ませるが、物音一つしなかった。ラアは部屋の奥に引っ込んでしまっているのだろう。
カナスはしばらくそこに立ち尽くした。
……かける言葉が見つからない。
中央に移って四年。子供染みたわがままをいつまでも突き通そうとしていたラアだったが、思えば、それが自分に向けられたことはほとんどない。それは、ヒキイだけに向けられる、甘えだった。
母を知らず、多忙な父と早くに死別し、人との深い関わりをほとんど持つことなく育ったという少年が、あれほどの笑顔を保ち続けていた理由。……それが、ヒキイであったに違いない。
ずっと支えてきたのだ。それと意識できないほど自然に。カナスの目から見れば甘すぎると思えるほどに、どこまでも肯定し、そうしてラアが自身の力を迷いなく発揮するのを助けてきた。
意識できていないということは、怖いことだ。
失ってしまったとき、淀みなく流れていたすべてが突然、停止する。
疑っていなかったからこそ。過去が覆るような思いに、すべてを投げ出しかねない。
……消えしまうかもしれない。あの笑顔が。
王には必要のないものだと思っていた。いつまでも肯定され続けるはずはなく、人の上に立つには、無邪気に何でも信じてゆく行為は危険でさえあった。
大切なものを失う哀しみを超え、変わることができれば、王として大きく成長するに違いない。……過去の自分なら、それを願い求めたことだろう。それなのに……、
なぜだか、気が重い。
カナスは戦うために生きてきた女だった。力を得るために、強くなるために、そうして、これ以上失わないために。
けれどこういうとき、彼女は自身の無力さを痛感する。
思いを整理することが、彼女は得意ではなかった。ラアに何を求めているのか。自分自身のことが、いまはよく分からない。
胸に沈むものを吐き出すように静かに息をつき、閉ざされた扉にそっと指先をのせた。
(ヒキイ、あなたなら……。こんなとき、どういう言葉をかけたのかしら)
……サンダルが石畳を擦る音がする。
いくつもの影が重なる廊下の向こうから、近づく白い衣。漏れ入る月明かりは、手にした太めの杖――補佐の杖――を浮かび上がらせる。
カナスははっと目を見開く。……しかしそれはすぐに、落胆に沈んだ。
ヒキイではなかった。ただひとりの太陽神補佐となった、夜神カムア。彼はラアの部屋の前で足を止めた。カナスは無言で身を引く。
カムアは扉に手を当て、閂がまだ外されていないことを確認すると、目には見えない力を使ったらしい、閂が引き外され、かたんと音を立てた。そうして押し開こうとしたが、どうやら物理的なもの以外にも、封がしてあるらしく、扉は少しも動かない。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき