睡蓮の書 一、太陽の章
「そうか……しまったな、こんなところが……。戻ったらすぐにやらせるか……」
「あの……この大きさの結界なら、僕でも、できます」
カムアの言葉に、ケオルは意外そうに瞬く。……そうだ、彼も月属、その第一級の神なのだ。
「それじゃあ頼む。早いほうがいいんだ。――ああ、北側も」
カムアが施術する間、ケオルは先ほど自身が口にしたことを考えていた。……水を介して侵入したとすれば、水属の力がなくてはおかしい。地属の精霊を、何らかの目的で、水属の神がここへと送り込んだ。ありえない話ではない。
ただ少し、嫌な予感がした。水属と地属、ふたつの力。それは、生命神を連想させるものだ。
敵対する北の神々の主神「生命神ハピ」は、地と水の性質を強くもつ。風と火の性質が強く現れる太陽神とは、対極にあるもの。いわば二つの属性の長の、さらに上に立つもの。
王や主神が精霊を直接支配するという例はあまり聞かないが、理屈で考えればありうる。
睡蓮とは水上に花開く植物。考えてみれば、地と水の属性を支配する生命神にはおあつらえ向きだ。それも、にわかには信じがたいが、神を移送するほどの力を持つとなると――。
(やはり、生命神の手に……?)
早すぎる宣戦布告なのだろうか……? いや、それどころではない、気付かぬうちに“王手”をかけられていたとしたら――。
肥大化する不安を払拭するように息をつく。はっきり言って、どれも完全には否定できないが、信じられないものばかりだ。生命神が自身で生み出す精霊の存在も、その力が神に影響を及ぼす事も、ありえないとしか思えない。神が姿を偽ったのではないか? ――しかしそれもまた、進入方法などさっぱり説明がつかないのだ。
しかし今、ここでそんな不安を抱いたところで、どうできるものでもない。
今すべきは、進入経路を可能性の限り引き出し、そこを強化する方法を考えること。――同じ過ちを、二度と繰り返さないために。
*
大河の下流、いく筋にも分かれ海へと注ぐその中に、北の神殿はあった。
南側の水上に、対になって整然と立ち並ぶ白い柱。その光景は、中央神殿の参道を思わせる。しかし門はその先にあり、神殿は、中央のものより高い周壁に囲まれている。
まずは、立ち並ぶ柱の外、北の神殿が目に入らないほど離れた場所に、降り立つ。キレスが遠隔から神々の存在を探った。
「神殿の外までがギリギリだな……。結界の外、西側に、二人、いる」
「王の存在は?」
「この範囲には無いね」
キレスの返答に、ヒキイは用心深く息をついた。もはや衝突は避けられまい。
神殿はふつう、そこを中心とした一定範囲内が守備対象となり、そこに踏み入れば存在を気付かれる。門番などが置かれるのは稀だが、敵が来ると予想されれば先手も打つだろう。計画的なのか――しかし、正門にいないというのはおかしなことだ。
「もう少し近づいてみましょう。月神は引き続き、お願いします」
姿が肉眼で確認できれば、キレスでなくとも気付ける。それは同様に、相手にも気付かれることを意味した。気配を殺し、四人は徒歩で近づく。
西側に見える、葦の生い茂る沼地に、人影が肉眼でとらえられるかどうかというところで、大地神シエンが足を止めた。
「――北の大地神……セトだ」
緊張が走る。北の大地神の独断行動だったのだろうか……?
「神殿内は?」
ヒキイが向くと、キレスは首を振る。
「結界が邪魔でまったく無理。もっと近づかないと――」
「……」
できることならば、衝突は最小に抑えたい。しかし、王の存在が明らかにならない今、神殿内を探ることが最優先だ。守備範囲外におびき寄せ争ったところで、北の大地神がその口を開くとは思えない。
「――これより守備範囲に入ります。『大地神』、できるだけ南側、退避可能な範囲に北神を誘い出してください。……カナス、あなたも彼と。いずれ援護も駆けつけるでしょう、それまでに何とか王の存在を掴まなくてはなりませんね……。
『月神』は私と、東側から範囲に入りましょう。……北の本拠は地下深くにあります。そちらを重点的に――お願いします」
「奴が、来た――」
「は? なんだって?」
振り返る男の言葉を無視して、北の大地神セトは一点をじっと見つめる。葦の茂みの向こうに二人分の影。
どうやら向こうも、こちらに気付いているらしい。歩を進め近づくシエンは、しかしその力を用いる様子が無い。
セトもまた歩み寄る。姿をはっきりと掴むにつれ、その口元を引きつらせるようにして笑んだ。
「こんなところで会えるとはな。……古の都へ、ようこそ――」
シエンがその足を止める。セトは喉の奥を鳴らした。
「おおっ。狩りより面白そうじゃねえか。せっかくの新作、どうせなら人の肌を切りたいと思ってたとこだ。……なあセト、そこの美人さん知り合いか? おれにも紹介してくれよ」
両手に短剣を握る男、ミンがへらへらと笑っている。セトが何かを伝えると、一瞬顔を硬直させ、ついで低い姿勢で刃を構える。口元にはさきほどと違う類の笑み。カナスは黒髪を背に払った。
「わざわざ足を運んでもらった礼に、二人まとめて相手をしてやるよ」
シエンはじっとその様子を観察していた。セトはいつもと変わりないように見える。誘き寄せたというふうではなく、また、その事実を隠しているようにも思えなかった。
「どうした、来ないのか……?」
口元に笑みを浮かべるセトもまた、こちらの真意を探るように、力を用いることに慎重だ。
「こいつら馬鹿なんじゃねえの! わざわざこんなとこまであんたを追っかけてきたって? 大人しく人間界で待ってりゃいいのに、ここが何処だかわかってんのか!」
「黙ってろ……」
「なんだよ。ごちゃごちゃやってねえで、早く始めようぜ!」
「おい、待て!」
セトの制止も聞かず、ミンが葦の茂みに身を隠し、その間を駆ける。背の丈ほどに伸びた葦を切り裂き、ざわざわと掻き乱し、泥を跳ねて飛び上がると、掲げた両腕を素早く振り下ろす。
鈍い音を立て、両腕の先に煌く刃は金の槍に受け止められる。シエンの前に出たカナスは、ただその両手で槍を支えているだけで、受け流すことさえしなかった。瞬き一つなく見下ろすその瞳に、ミンは自ら弾かれるように身を退け、距離をとった。
セトはミンを横目に映し、苛立たしげに舌打ちした。自らはまだ、動こうとしない。
この警戒の様子。こちらが現われること、その目的を知らぬふうに見える。やはり無関係なのか。シエンは確証を得ようと口を開く。
「睡蓮の精霊は……お前の配下のものか」
その途端――セトの顔色が明らかに変わった。目が大きく見開かれたかと思うと、緊迫した様子で東方を見遣る。
シエンは咄嗟に身をかがめると、地に手をつき力を満たした。東側にあるキレスらの存在をつかまれるわけにはいかない。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき