睡蓮の書 一、太陽の章
ラアは乗りかけてぴたりと止まる。あれ、なんだかおかしいぞ。まるで他人事だ。
「それは俺ではなくて……、南に住む月属最高位『月神アンプ』の、キレスです」
(え。……あれれ?)
ラアは混乱した。昨日の人と、今日の人。合わせていたものを、あわてて別々に分ける。
分けて考えてみれば、確かに、雰囲気も話し方も、服装だって全然違う。目や顔のつくりが似ているだけで、すっかり同じと思い込んでしまった。
「ごめん……間違えちゃった……」
「いや、たいてい間違えるんですよ。髪を切ったのでもう大丈夫だと、油断してました」
そう言って、ケオルは笑みを見せる。そうだ、昨夜の人はこんなふうに笑いそうにない。
「兄弟なの?」
「それもよく言われますが、違います」
「そうなんだ。面白いねえ、自分と同じ顔の人に会ったら、おれなら、びっくりするよ!」
ラアはいつもの調子に戻って、にいっと八重歯を見せて笑う。なんだかほっとした。先入観のせいか、いろいろ悪いほうにばかり考えていた。
「それにしてもなぜキレスが……。昨夜は他に誰が?」
「えっ? あ、そういえば、昨日の晩まで、シエンがいたはず……あ! そうか、同じ南に住んでるってことは」
ラアが分かったというように声を上げると、
「シエンに、その槍の話をしたんですか?」
「うん、どうしたらいいかなって聞いたら、シエンは出来ないって言って……」
「そりゃそうでしょう」
さらっと突っ込むケオルの言葉に引っかかり、ラアは少し口を尖らせると、
「なんでそんな、当たり前みたいに言えるの?」
するとケオルは、逆に驚いたという様子で、目をしばたく。
「……カナス、火属第二級『技神セクメト』ですよね。その黄金の武具は、太陽神の加護を受けている」
「そうそう。ケオル、カナスの事も知ってるんだね! 会ったことあるんだ?」
「いえ、ないですけど」また当然のように答えて、ケオルは続ける。「普通の武具であれば、大地神であるシエンがどうにかできたでしょうが、セクメトの武具だとそうはいかない。太陽神補佐のヒキイに可能だったろうに、わざわざ……」
「え、ヒキイに、できるんだったの!?」
すると、ケオルはまじまじとラアの顔をみつめ、
「どうやって、元に戻すつもりだったんですか」
「うーん、傷を治すみたいにしたら、直るかなーって、思ったんだけど……」
ラアが答えると、ケオルはすっかり呆れ果てた様子で額を押さえる。
「まさか、ここまでとは……。なるほど。ヒキイは、あなたには、甘い」
言われてラアは頬を膨らますが、ケオルはかまわず続けた。
「治癒の力を、あなた自身が用いるとき、どういった仕組みでそれが効果を成すのか、考えたことがありますか」
それは、尋ねるというより、無知を指摘している言葉だった。ラアはふて腐れたまま、
「だって、治れ治れって思ったら、治るんだもん。それでちゃんとうまくいってるよ!」
「それを道具に対してもやってみた、と」
「とにかくやってみれば、できるかできないか分かるんだから。いいじゃん、別に」
「敵と交戦中に、同じことが言えますか」
ラアはドキッとした。そんなことは、考えた事がなかった。
「試すことは確かに重要です。しかし、そこに理屈が、それへの理解がなければ、あなたは自身の力を半分も扱えていないのと同じだ。ただ相手を影響するすべだけではない、その影響に対処するすべ、それら両方を理解してこそ、あなたは自身の力を自在に扱えると言えるんじゃないですか」
ケオルの口調は、厳しいものだった。
「あなたは確かに、素晴らしい素質をお持ちのようだ。感覚で力の性質を掴み、望めばそれを実現できる――しかし、それでは範囲が限られる。
四属はそれで事足るかもしれない。しかし、それ以外は、どうです?」
確かに、四属の力は感覚で掴んでいるだけで、それ以外はわからない。けれど王となり、大いなる力を手に入れれば、そんなものは問題にならないはずだ。そう、昨夜の術だって、きっと打ち破れる。力を、手に入れれば――。
「……ちゃんと、気をつけるよ」
ラアは表情を引き締め、答える。ケオルは、ラアの黒い瞳をしばらく、黙って見据えていた。
「……あなたはさっき、知属はずるい、と言いましたね。仰るとおり、我々は他の力を借り利用する。そしてその力がどんなに強力であっても、自らそれを生み出すものに及ぶことはない。対して、あなたは大いなる力を、神位を得る前から既に、自ら生み出し扱える」
続けてケオルは、ラアの考えを見透かすように、こう言い放った
「けれど、その『力を持たない知属』の俺は、あなたの動きを封じられますよ」
ラアの目がはっと開かれ、警戒を持ってケオルを映す。空気がきんと張り詰めた。
ラアは、ケオルの動きに細部まで注意を払おうと、意識を束ねた。闇色の瞳に、黄金がじわりと広がる。
ケオルは椅子に腰掛けたまま、身動きひとつしなかった。肩を張らず、ゆったりした様子で、ただ、ラアを捉えていたその視線を、ふいと外しただけだった。
脅しただけなのだろうか……? そう疑い始めたとき、ケオルの口から、低く、音が漏れた。何の音なのか、歌にしては地を這う抑揚のない、独り言にしてはひどく長く切れ目のない、音。不明瞭だったそれは徐々に何かの言葉らしく耳に届く――しかし、何を言っているのか、まったく分からない。
ラアは無意識に、その言葉を聞こうとしていた。正体不明のものを前に湧き上がる不安。声はまるで蝿の羽音のように、耳にまとわりついて離れない。
(なんだ……これ……!)
膨れ上がる不快感。目に見えないものを取り払いたいと思ったが、体が動かない。なぜだか、力が抜けてゆく。ラアはがくんと膝をついた。
……しばらくして、不快な「音」がぴたりと止んだ。ケオルが唱えるのをやめたのだ。その途端、ラアは体の感覚がすっかり元に戻っているのを感じた。
(今の――『呪文』……?)
ラアは肩を上下させながら、その音の主を見上げる。ケオルは険しい表情のまま、ラアの傍に膝を折り、低い声で語りかけた。
「ライオンとネズミの話を知っていますか。力強さを自負するライオンが、人の仕掛けた罠にあっさりとかかり、小さなネズミに助けられる話です。――自身がどれほど大きな力を持っていても……いや、大きな力を持つからこそ、簡単に足を掬われる。力に対する驕りが生み出す『隙』を衝かれるんです」
そうして静かに、諭す。
「知属の力は確かに姑息なもの。しかし今のままでは、そうしたものに対してあなたは手も足も出ない。王としての力を得たところで、理解が及ばなければ同じ。……漠然と『気をつける』じゃ、だめなんですよ」
ケオルの言葉に、ラアはきゅっと唇をかんだ。――その通り、だった。
ラアは力に対する感覚が鋭く、感覚で理解すればそれを自身の力に変えることができた。そのため逆に、感覚で理解できないものには価値がないと、切り捨ててきた。
けれど、今はっきりと知らされる。感覚で理解できないものは、直接的な力にはなりえなくとも、知らなければ防げない。そうした相手に、勝つことができないのだと。
(戦だったら、殺されてたかもしれないんだ……)
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき