睡蓮の書 一、太陽の章
中・かがやき・4、ライオンとネズミ
中庭に続く階段にしゃがんで、ラアはうつむいた。
――カムアが来なかった。
ホリカと話をしたりしていて、少し時間が遅かったのかもしれない。でも、今までだって何度もそういうことがあった。カムアはいつも、待っていてくれたのに。
(昨日も、いつも通りに別れたのにな)
ただ、思い当たることはたくさんあった。
最近の、落ち込んだ様子。昨日の、寂しそうな表情。
隠していたこと、はぐらかしてきたこと。いまさらになって、罪悪感がラアの胸をじわじわと締め付ける。隠していることを、わざと聞かないようにカムアが気遣っていること、知っていた。それに、ずっと甘えてきたのだ。
カムアは、隠し事ばかりする自分を、もう信頼できなくなったのだろうか。
(……そんなわけ、ないよっ)
ラアはぶるぶると首を振った。そう、たった一日だ。カムアに、何かがあったに違いない。自分が信じなくてどうするんだ。今まで、ずっと信じてもらってきたのに。
(明日には、きっと会えるよね)
ラアはひとりうなずいて、立ち上がった。
空を見上げる。ギリギリまで待っていたから、もう学習の時間は始まっている。
(そうそう、今日は新しい人が来るんだよね!)
ラアは気持ちを切り替えようと、深呼吸した。
学習の時間はいつも遅れていくので、ラアは少しも慌てなかった。それに今日は、前にヒキイで大成功した“人形”を置いてきたから、たぶん気付かずに相手をしているだろう。
(おれが部屋に入ったらびっくりするだろうな)
胸をくすぐるような気持ちが湧いてきた。どんなふうに驚くだろう。――いやその前に、どんなふうに人形を相手にしているのか見ておこう。あとでからかってやるんだ。
ラアはその姿を隼に変え、すいと学習の部屋へ向かった。
机に向かっていつも通り、素直に書物を広げている“人形”。そして、その向かい側に座って、黙って手にした書物を読んでいる人物。
新しく学習の指導にやってきたその人は、ヒキイよりずっと若そうな男神だった。肩の上でまっすぐ切り揃えられた黒髪が、うつむいた顔を隠している。
部屋はしんとしていた。その人は人形に話しかける様子もない。かといって、ラアを探している様子でもなかった。しばらく様子を伺っていたが、何の動きもない。
(何してるんだろ……)
ラアはもう少しよく見ようと、格子窓のあたりまで飛んだ。と、羽音に気づいて、その人が顔を上げる。
くっきりと目尻を上げた二つの眼。窓からの光が浮かび上がらせる、その虹彩の紫色。
(あ……! この人……っ)
声を上げそうになった。――間違いない、この顔を知っている。忘れるもんか!
(昨日、夜に来た人だ!)
この瞬間、昨夜見たあの眼が目の前のそれとはっきり重なった。たくさんの飾りをつけてはいないけど、そして長い髪はさっぱり切ってしまったようだけど、顔はそのままだ。
男はこちらをじっと見上げていた。ラアは少しどきりとした。――いいや、バレるはずがない、そう心の中で繰り返す。ラアは意地になってその目を逸らさず見つめ返した。……すると、
「いつまでその姿でいるんですか?」
その言葉に、びっくりして飛び上がる。確かにこっちを見て言った。ラアはあわてて術を解いた。
「ど、どうして分かったの……?」
「ヤナセから聞いてますよ。その瞳――変身しても、変わらないんですね」何でもないことのように言って、彼はふっと笑う。「それに、隼とは、あまりに直球で」
「ちょっきゅう? 何が?」
「隼は、王を象徴する聖鳥。天の支配者として、その両目が陽と月に、その翼の模様が夜空の星に喩えられることは、文献上ではあまりに一般的ですよ。その姿をとることで、間接的に正体を明かしているようなものだ」
知らなかった。鳥に変身するとき、隼が一番かっこよくて、自分にぴったりに思えただけなのに。こんなことなら、蛇にすればよかった。
「それからこの人形」彼は続けて、目の前のラアいたずらに言及する。「受け答えをしないのはあまりに不自然ですよ。ヒキイで一度試してますよね、次はもっと上手くやってくださいよ」
そう言うと、挑発的な笑みを見せる。ラアは少しむっとして、
「ヒキイから聞いてたなんて、ズルイ!」
「情報収集は基本ですから。この程度の情報、伝わっていないほうが不自然ですよ」
「じゃあ、聞いてなかったら気付かなかったでしょ? 見た目が完璧だし、気配だって……」
「気配。なるほど、彼が騙されるわけだ。……言っておきますけど、それ、知属には無意味ですよ」
知属? ラアはぱちぱちと瞬く。知属だとなぜ意味がないんだろう。
神々の属性は、実は全部で6つある。火水風地の基本の四種と、月、そして知。
知属神の最大の特徴は、彼ら自身に特別な力がないこと。彼らは力を用いるとき、呪文を唱えたり、文字を描いたりして、周りの環境の力を「借りる」のだ。
ラアはそうした属性があるのだと聞いたときから、あまりいい印象を持っていなかった。自らの力ではなく、他者の力を「借りて」何かを成すなんて。ちょっと、かっこ悪い。
この人は、知属神であるらしい。――では昨夜のあの、不可解な力も……。
「今日は、名前、教えてくれるんだよね」
ラアは少しすねたような、疑うような声で、言った。すると彼は、すっかり忘れていたというように、あわててその場に片膝をつく。
「……失礼しました。俺の名はケオル。二年前、『知神ジェフティ』の号を得ました」
そう言うと、深々と頭を垂れた。
ラアは拍子抜けして、何度も瞬いた。昨夜の、あのつっけんどんな態度はなんだったのか。やはり次期王だと知っていれば、ああした態度はとらなかったのだろうか? それはそれで、なんだか複雑な気持ちだ。
「さっき、なんで『知属には無意味』って言ったの?」
「……それは、」ケオルは顔をあげて、「ヒキイは火属の第一級、それ程の力があればこそ、対象を気配で判断するのは常でしょうが、知属にそんな芸当はできませんから。代わりに、得られる情報は僅かでも逃しませんよ。それをいかに利用するかが、我々の『力』ですから」言いながら、やれやれとまた椅子に腰掛け、机上の書物を手にした。
「利用とか言って。……知属って、やっぱ、ズルい」
ラアが非難すると、
「まあ、そこは否定しません」
ケオルはあっさりそれを認める。……なんだか悔しい。ラアは唇を突き出すと、
「とにかくっ、昨日はカナスの槍を直してくれて、ありがとう!」言い忘れていたこと。そして、「でも、名前を言わなかったのは、よくなかったと思う!」言いたかったことを伝える。
ところがケオルは、目を丸めてラアをみつめ返し、
「槍? ……いや、俺は何もしてませんよ」
「そんなこと言っちゃって……。おれ、ちゃんと覚えてるんだからね!」
「いつ直したことになってるんですか」
「昨日の夜! ここに来たでしょ! それで、壊れた槍をくっつけてくれた後、なんか変な術使っておれを眠らせたじゃないか!」
ラアがまくし立てると、ケオルは神妙な顔つきで口に手を当て、思案を巡らせているようだった。
「髪が長くて……ちゃらちゃら飾りをつけてましたよね」
「そう! そうだよ! ――え?」
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき