LOVE FOOL・中編
「襲いかかってきた暴力メイドの手が当たっていたのかもな…って覗くなよ!」
「うっかり見えたんだよ」
傷一つ無い見慣れた肌を眺め、赤黒い染みに暫く意識を向けていたがやがて、はたとシャツを正す。振り返り際背後を睨むも、本人は眼を泳がせさらりと言い逃れた。
「ああ、良かった。元の麗しきヴィヴィアンヴァルツに戻ったね」
数日ぶりに纏う華の香りに包まれ、温まった躰をドアから滑らせると廊下で待ちわびていたラームジェルグが大振りに両手を広げ、芝居かかった仕草で嬉々と背中に回す。
「いつもと変わらないだろう?」
客間にエスコートする手を冷たく払い退け、一呼吸間置いてくるりと踵を軸に振り返る。うん?と自分の横顔に見惚れる隣人へ問うた。
「そんな事は無い。此処に来た時の君はとても緊迫した表情で、焦燥もしていた。
何事が起きたのかと思ったよ。
―けど、自覚が無いならまだ心配だな」
ラームジェルグはヴィヴィアンヴァルツより7つほど歳が若い。けれど顔つきや体格言動は境遇の違いか青年は大人びて、世間知らずの魔法使いは成長しないまま年を重ねている。
淡い微苦笑を浮かべ、屋敷の主らしく使用人に客へのもてなしを指示する黒衣の背中を見、ヴィヴィアンは「そうか」と再び顔を正面に向けた。
「ザニアまで最短最速距離で行きたい」
寝室。おそらくアストが居るのだろう。
広間の階段場から二階に向けメイドのゲーデを呼び付けた声が止まり、驚いたと眼を見開いたまま怖々振り返る。
「異大陸に?何の用で?
ヴィヴィアンヴァルツが直接出向くほどの大事が?」
「出来るか?」
いつになく真剣に、簡潔な応えを急く佳人の言葉にラームジェルグは言葉を失っていたが面白い、と笑むなり徐に膝を着いた。
「俺がこれまで一度でも君の要望に「NO」と応えた事が?」
この男はどうしてこういちいち芝居がかった態度なのだろう。今に始まった事では無かったが。
床に片膝を落とし、厳かに頭を下げ自分に一礼を捧ぐラームジェルグを眼下にヴィヴィアンは肩すくめ記憶を探る。
「そういえば無かったか、も。な」
仄かに乾いた銀髪を指に一筋絡め、壁に背を預けながら窓の外に広がる蒼い景色を眺めた。
蒼い海と蒼い空。けれどそれも数時間で日が沈む。明朝に先伸ばせば、それだけ解呪も遠のく。
そもそも、ザニアに行って「青の賢者」に逢える保障は無いのだ。
「焦燥していた」というラームジェルグの言葉は気に入らないが、確かに焦りがある。認めざるを得ない。
「ヴィヴィアンヴァルツが「直ぐに」と云うなら直ぐに発つさ。どうして欲しい?」
尋ねられアストライアに嘘を吐いてまで使ったオパールをぱくり、と開いた紅の口許に当てた。
当然ながら、無反応。
魂は一度きり、彼女の心はもう居ないのだ。
ヴィヴィアンは、思案深く宙一点に向けていた双眸をかしづく青年に戻し、放つ。
「決まっている。「今、直ぐに」だ!」
「御意」
高慢に命じられる事が嬉しくて仕方が無いという風に。ラームジェルグは口角を上げ応えた。
++
陽射しを避けた壁際の長椅子で両脚を揃え姿勢良く腰を下ろす屋敷のメイドは膝に乗せた男の額に冷たい掌を当てる。
意識の無い重い躰をゆったりマットの上に横たえてやると、だらりと腕が床に垂れた。
「うふふ…、少しやり過ぎたかしら」
無表情に閉じた唇には微かな笑みが血色良く浮かぶ。
熱気を帯びた色の髪を指で弄び、それから険しく顰める目元に滑らせ、視線を下ろすと「腕」が目に付いた。
厳重に包帯で巻かれたそれからは傷特有の血の臭いも薬品の匂いもしない。その代わり、近づく者をも侵す強い瘴気は何だろう?
汚れた布上からでもヒリヒリと肌を焼く、実体の伴わない痛みに少しの快感を覚え、彼女は手を伸ばす。
が、直ぐに自分を呼ぶ主人の声に顔を上げた。
「大変、お起きになって下さいませ」
「…ぅ…?……わっ、あ!?」
揺すぶられ眼を開けると自分が彼女の膝の上で伏していた事に気が付き、大きく仰け反る。
床に手を付き、転がる様に這い出るとアストライアは乱れたシャツを整え、部屋の隅まで遠のく。
「済まない。俺はどれくらいそうしていたんだ」
「ほんのうたた寝程度ですわ」
平淡に応え、唇だけで微笑む。
瞳は何処か虚ろで、アストの奥に棲む物に話しかけていると錯覚させた。
次第に近付く呼び声に彼女は目線を逸らす。
気配の感じさせない歩行と速さで部屋を横切り、壁際に貼り付く隣にまで距離を詰める。人とは思えない、そうと浮かぶ面持ちにもう一度含みのある微笑をにこりと向け、ゲーデは扉を開けた。
「お呼びでしょうか、旦那様」
廊下に姿を現すなり「来るのが遅い!」と一喝が飛ぶ。続いて部屋を出たアストライアが声の方角に首を捻ると階段の手摺に肘を付く、魔術師二人組が偉そうに此方を見上げていた。
出会い頭、意識を無くしたおかげでヴィヴィアンの隣に立つ青年に見覚えが無い。とすれば黒衣の彼がこの屋敷の主。
ラームジェルグ・アルトアイゼン・シャノアールか。
「ジャーロに直ぐ出港の準備をさせろ。俺はヴィヴィアンヴァルツと異大陸を目指す」
「畏まりま…」
「お前は来なくて良いよ!?」
いつの間にか足されている同行者の発言にぎくりと、ヴィヴィアンが二人の会話に割り込む。
賢者が居るというザニアまでの交通手段さえ手配してくれれば良かったのだ。「秘密」が暴かれると厄介な相手の内の一人と旅をする気は毛頭無い。
―というよりは確実に避けたい。
言葉の端を折られ、掌で口元を押さえるゲーデと向かい合うラームジェルグの袖を引き寄せ、強く命じるもこればかりは、と頑なに首を振る。
「良くない。女に少し殴られたくらいで気絶する様な男では頼りにならん。
勿論ヴィヴィアンヴァルツなら自分の身くらい守れるだろうが、そんな煩わしい目に合わせたくはないんだ」
武術に秀でた彼女の一撃は「少し」どころか、まともに当たって吹き飛ばない男はこの国には居ない。そんな都合の悪い部分は語らず、更に追い打ちを重ねた。
「ザニアは魔法国家、古き精霊の棲む国で無名の剣士に何が出来る?」
上着を握るヴィヴィアンの手を取り、いつもの自信過剰な態度が珍しく掻き消えた肩を抱く。
「剣術に秀で、イエソドでも君の次に優秀な俺なら決して足手まといにならない」
「それは知ってる」
知識と術力だけでなく、戦闘力だけで測るならイエソドでの一番はこの男に他ならない。
「でも」とヴィヴィアンは二階の通路で軽く腕を組む騎士と友とを交互に泳がせ、狼狽混じりに訴えた。
「俺は単なるアイツの付き添いだし、勝手に決める訳には…」
通常ならば相手の都合など気にも留めないくせに。
どうしても大陸を渡る事情を明かしたく無いのと、断る理由を求めてヴィヴィアンはアストライアに矛先を向けた。出来る事なら他力に頼りたくない男の事、当然拒否するだろうと。
しかし意外にも思惑は裏切られた。
「守って貰え。俺は自分の事で手一杯だからその申し出は有り難い」
必死で合図していたヴィヴィアンを一蹴し、アストライアは素っ気なく床に置いた荷物を背に掛け階段を下りてくる。
「アスト!?何だよ?何で怒ってるんだ」
「別に怒ってない。そもそも俺達はラモナの一件が済めば別行動を取る筈だった。
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨