LOVE FOOL・中編
第5環
彼の一日はまず、ヴィヴィアンヴァルツの私邸を訪れる事から始まる。
初めは単純に自分を信頼し、誰にも明かした事の無い屋敷を託してくれた親友に報いたい一心と管理と掃除を全うせねばという責任感から。
疑う事を知らない、生真面目な青年は渡された黄金色の鍵を握りしめイエソドの文殿、ヴィヴィアン専用の書庫奥に掛けられた巨大な一枚の絵画を見据え、同じく黄金の額縁、キャンバスに描かれた深紅の扉にそれを挿し込む。平面である筈の鍵穴から、かちゃりと錠の開く音に身を強張らせた。
天才魔術師ヴィヴィアンヴァルツは決して己の私生活を明かさない。研究に没頭するあまり大抵の研究者や魔術学士達は、従者や使い魔、下僕といった輩に身の周りを世話させるものだが彼にそんな噂は一つも湧き起こらず、ミステリアスな日常は一層彼の魅力を深めゆく。かといって自分で炊事洗濯をする男でも無い。
一体どうやって?
魔術で全て動かしているのか?
答は見つからず謎は謎のまま。
それも難しい高等魔法の何かなのだろうと人々は解く事を諦め、暗黙に推測していた。
しかしブリジットは知っている。
現在ヴィヴィアンヴァルツにその能力は無い筈。
魔法が使えない今だから彼は「秘密」を知る彼に屋敷を任せたのだろうか??
(だったら頑張らないと!)
不安と奮起。
様々な想いが胸中に渦巻き、歯車の廻る軋みと共に剥がれ落ちる現実との境界線を眺めていた。
床が抜け落ち、奈落に呑みこまれる様な感覚はこれから先も馴染めそうにない。勿論、最初に忠告しなかった親友へ若干の憤りも含め。ヴィヴィアンヴァルツが独りで暮らすその理由を、身を持って思い知る事になったのだ。
「お邪魔、しますー…」
小柄な身を前のめりに倒し、か細い声をかける。
甘いブラウンの髪から覗かせた灰緑色の瞳を瞬けば、エントランスは絵画の中と思えない広さを誇っていた。
そもそも描かれた扉は唯の通過地点で、此処は別の土地。別の世界、次元なのかも知れない。怖々と辺りを一周させ、見た事もない絢爛な部屋の構造に息を呑む。
これではヴィヴィアンがみすぼらしいと街のホテルに文句を言うのも頷ける気がした。カテドラルを模したイエソドの巨大書殿ともまた建築形式が異なる、東と西の混在したカテゴリに収まらない不可思議な壁の模様と装飾。そして手描きされた文様全てに意味がある。
(…読み解けないけど)
彼の生活スタイル、価値観は常人とこんなにも桁が違うのだ。これがヴィヴィアンヴァルツの棲む屋敷―。
竦む足を一歩踏み出しながらブリジットは長く垂らした三つ編みをくるくると頭上に纏め、深呼吸した。
二階の書斎と寝室に向かおうと中央ホールの階段を一段上がると部外者の気配に分厚い本を開きながら下りて来た男がおや、と片眉を動かし口元を曲げる。
「ブリジット・クラインヒル―だったか。
此処にはもう来ないものかと」
「いいえ、そういう訳には。
昨日は、まさかビビの家にビビ以外の人がいるなんて思わなかったので…とても、驚いただけです」
「驚いた「だけ」。ふん、近頃の人間は恐怖をもそう呼ぶのか」
「う…」
肩に掛るくらいの編んだ金髪を乱雑に払い、脅かす様に片手で書を閉じる。
蛇に睨まれた蛙、とはこういう状況を示すのだろう。軍服に似た白いスーツ姿の身をレオパード柄のマントで包み、オセ・ハレルと名乗った彼はブルーの隻眼で冷たくブリジットを揶揄した。「人間」種に対する威圧感と血の通っていない肌の色。かつてブリジットが遭遇し、共に過ごしたバアル・ゼブルやアスモデウスと同じ。
―悪魔だろうか?
気弱な魔法使いが喉まで出かかった疑問を声に出せないでいると、オセの出て来た部屋の反対側から、やや明るい青年の声が降る。緊迫した二人の空気を見かね、和やかに同居人を諭す。
「ヴィヴィアンが他人に鍵を預けたのが気に入らないってのは判るが、歓迎してやろうぜ?俺達は人の力無くしては存在を維持出来ない身の上だ」
見上げると胸に大きな深紅の宝玉を埋め込んだ褐色の青年が曲角から半身を出した。鍵と同じ装飾と、同じ金色の瞳を輝かせ文字通り壁から上半身だけを生やし、横に移動してくる彼はひらひらと手を振って笑む。
昨日ブリジットに悲鳴を上げさせたのは自分の方であるという自覚は全く無いらしい。
「そうなんですか?」
家主の唐突な言葉に思わずはっと振り返る。
オセに顔を向けると、彼も苦い表情で頷いた。
「ああ、所詮我等は「物」だからな。飢えても外には出られない。長期間、家を空けられれば消滅する」
「…。」
(消滅!)
ヴィヴィアンヴァルツに従者が要らない理由。独りで居る理由。遠出を嫌がる理由。
全ての事情は「屋敷」自体にあったのだ。
単なる高慢さ故だと思っていた、何も知らなかった自分に、ブリジットは嫌悪する。
半獣の存在は古くから稀に文献で記述されているが、無機質、しかも人が棲める家の精霊。神霊?
判らない。彼等は一体、何者なのだろう?
「そんな訳だ、ブリジット。
俺達は丸二日以上何も食べて無い」
「ご飯、何か作りましょうか?」
ふいに背後から「主」に抱きしめられ、肩を浮かす。
体温の感じられない腕はやはり、彼に血が通っていないのだと知らしめた。
「何もしなくて良いよ、目を閉じていれば直ぐに済むから」
「…え…?」
へらりと軽く表情を緩ませ逃れようと身を捩る、が抱えられた腕の強さは益々ブリジットを拘束する。
「ちょ!…えええっ!!?そんな話は聞いていない!!」
(酷い!)
自分の身代わりにするなんて、やっぱりヴィヴィアンはヴィヴィアンだった!
「大丈夫だ。豹にでも噛まれたと思え」
「それってかなり痛いと思うんですけどっ!!」
後ろから羽交い締めにされ、瞳一杯に涙を溜める哀れな獲物にオセは顔を寄せ囁く。人であった彼の顔は肉食獣のそれに代わり、悲鳴を絞り出した。
これは二人の悪ふざけ、からかっているに過ぎない。
己が何より最優先の魔術師がそんな身を削った条件で彼等と契約を交わす筈が無い、のだが。
今のブリジットにそれを解する冷静な思考は働かず、蒼白な顔色を赤面させもがく。喰われる恐怖と、もしかしたら毎晩ヴィヴィアンもこんな目に!?
―という邪な想像が不本意にもぐるぐる脳裏を巡る。
(面白い顔だな)
オセ・ハレルは表情態度にこそ表しはしないが、思いのほかこの無垢な客人を気に入り初めていた。
当然ヴィヴィアンヴァルツの次に、ではあったが。
『愛と涙はどちらが高いと思われますか?』
「ブリジット、あいつ等と上手くやってるかな」
などとは、半ば騙し打ちの様に預けてきた幼馴染の安否は露とも脳裏に浮かばないヴィヴィアンヴァルツが店先のトルソーが纏った煌びやかな赤衣に目を留めた頃。溢れかえった出港と入港の交差する人波に呑まれ同行者を見失う。
「済まない、人違いだった」
掠めた長い銀髪を追い掛け、手を伸ばしたものの「彼」に到底作り得ない優美な微笑みで此方に振り返った青年は、アストライアがそう詫びる間もなく難解な問いを差し出した。
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨