LOVE FOOL・中編
やがて奏でる歯車の軋みと刃が風を斬るハーモニー。
悲鳴と骨が断たれる麗しき音色。
傘を差したまま白薔薇はゆっくりと振り返る。
城内は静かになっていた。
歌も踊りも、其処には無い。ただ沈黙。
死臭。血の臭いーー。
広間に立っている者は、彼等三人しか残されていなかったからだ。
ラモナ王国の歴史はこの日、一夜にして断ち切られた。
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新緑の爽やかな空気が重い瞼にひやりとした感触を与え起き上がり、髪を指で梳く。
窓の外はすっかり日が昇り、遅い朝を迎えていた。
積み上げた書物全てを貪り、最後の一章に目を通した後落ちる様に眠ったらしい。閉じた表紙に突っ伏していたヴィヴィアンヴァルツはどこからか流れ込むスパイシーな香りに片側の眉を上げる。
身を起こすと肩に掛けられたブランケットがずり落ちた。
気だるい足取りで書斎の扉から上半身だけを覗かせ周囲を窺うが、居ると言っていたアストライアはおろか、ユプシロンやエルライの姿さえ其処には無い。
空腹感を刺激する不思議な香りは下階から昇って来る様で、楽しげな会話もそこから漏れてくる。
(こんな時に何を…)
いつになくまともな言葉を浮かべながら一階のリビングに向かう。何もやましい所はないのだが、足音を殺してしまうのは何故だろう。
ヴィヴィアンはコホンと軽く咳払いを落とし、軽く閉められたドアノブに手を掛けた。
「昼にはザニアを発て…なんの匂いだ?」
元々隙間の開いていた扉は少し手前に引くだけで音も無く室内の光景を晒す。苛々と其処に居る筈の同行者を急き立てるが、口をついたのは咽る程充満するスパイスの香りと大きな丸皿を手にした一同が列を作って並んでいる事態についての問い掛けだった。
「…何を、している?」
それ以上の言葉が出て来ない。
面食らうヴィヴィアンが訊ねると「見ての通り」と素っ気ないユプシロンの返事。怪訝な眼差しを浮かべ、キッチンの奥に前に進むとアストライアが大きな鍋の前から此方を振返った。
「丁度良かった、そろそろ起こそうかと思っていた処だ」
軽く微笑む手元には深い鍋にドロドロした茶色い液体が煮立っている。それを掬い差し出された精霊二人も順番に食卓に着く。
彼女たちが食事を取るのか疑問だが、断らない処を見ると嫌々ではなさそうだ。
「野菜と肉とを12種類の香辛料で煮込んだ家庭料理
…食べた事ない?」
何か怪しげな物でも見るかの様な魔法使いの視線にアストはもしや、と訊ねる。
「無い…要らない」
食わず嫌いな魔法使いは即座に首を振る。
(失敗した)
今度は食べられる物を作る事にしよう。
背けられた青白い首筋を横目で盗み、浮かんだものの「次」があると思っている自分に表情を曇らす。
「…。」
今度こそ、本当に。ヴィヴィアンヴァルツと別れなければ。
「美味いのに」
誰にともなく呟くユプシロンの正面で椅子を引き、ヴィヴィアンは組んだ両手に顎を乗せた。
「黒薔薇は「雷公」を使えたと思う?
身体を乗っ取っているなら使えない事も同じ筈じゃないのか?」
本人が使えない者を、操る側は以前と同じく使える。というのは都合が良すぎる。そもそも元凶の魔女も奴等の仲間ではないのか?
沸き出す納得のいかない疑問点を賢者に突きつけると彼は即座に否定した。咥えた銀のスプーンを突きつけ、くるりと回す。
「お前に呪いを掛けたのはおそらくクレセント=マイルストーン。道標の魔女とも言われていて、気まぐれな性格は月の満ち欠けに準ずる。通称「三日月姫」」
「満ち欠け?そういえば満月だった」
最初の夜。見上げた空には確かに大きな月が浮かんでいた。
「それは最悪の時に遭遇したな」
世界と次元に走る列車に乗り、人間の岐路に現れる。彼女の目的がなんなのかは誰にも理解出来ないが、判る事は一つだけ。
「お前の魔力は「盗られた」訳でも「失った」訳でも無い。体内に変わらず存在している。
暗示が掛っているか無効化されている、と考えた方が正しいだろうな」
皮肉にも。
黒薔薇のおかげでそれが実証された。とユプシロンは続けた。
「封印を解く鍵が俺の「選択」って事か…で?
どうすれば魔法が戻る?当然知っているんだろうな?」
「一応は。だが第三者の俺が教えると二度と元には戻らない、そういう仕組みだ」
自分の意志で「選択」しなくては意味が無い。
数日前、形ばかりの師であるメーガナーダにも言われたばかりだ、とヴィヴィアンは低く呻いた。
「…その時が来ても俺には正解を選べないと言われた」
正解を選べない、魔力は二度と戻らない、と。
ほろりと零す気弱な言葉に幼い精霊が顔を上げる。
自分の前に置かれた手つかずの皿をヴィヴィアンの目の前に押しやると、賢者は口の端を意地悪く曲げた。
「そうか?俺の見立てでは今の処4割だが。自覚があるならこれからも改善出来る」
「低いな!―もしも間違えたら?」
「二問目があるとは思えない」
軽く放つ宣告に、首を垂れる。
やっぱり。
「うー…」
深い溜息を吐くヴィヴィアンの手に、少女はおぼつかない手つきでスプーンを握らせた。
空腹な時は最善な判断が鈍る。
成すべき問題は山積みで、課せられた人命も重い。
まずは自身を満たすべき。それを言葉で伝えるだけの語彙を持ってはいないが、気持ちは届く。
「そ、そこまで言うのなら。食べてやっても良い!」
頭に黒薔薇を咲かせた少女を一度睨むと、渡されたスプーンを掴む。
……。
…美味い。
顔をアストライアから逸らし、か細く発した言葉に一同。ユプシロン以外が淡く微笑んだ。
即刻シェステールに帰る。
そう言って譲らないヴィヴィアンヴァルツと患者の身を
案じる医師との長い口論の末、ユプシロンの助言もあって縫合の痕も生々しいラームジェルグは一同の許に戻って来た。
本来なら自分だってこの重傷人に船旅をさせたくはないが、異大陸に彼を残して帰る事も根本的な解決にはならない。
一度、経路を作ってしまえば帰りの道は巻き戻しが出来る、ゲーデが屋敷の残っていたのはその為。
此方側と向こう側から再び空間を繋ぐという。
怪我人を連れてまたあの怪物の遭遇する事になるのでは?
と訊ねるアストライアの懸念は幸いにも杞憂に終わった。
「ユプシロン、俺はやはり貴方の助言には従えそうにない。俺は黒薔薇を追う、奴のした事がどうしても許せない」
これから行おうとしている事も。全て。
帰還の支度を済ませ、アストライアは露わになった右腕に包帯を巻きつけ言う。
修理の終わったグングニルに乗り込むヴィヴィアンの後ろ姿を眺め、それから賢者に向き直る。
後ろめたくはあるも、告げる決意は揺るがない。
思い詰めた騎士の顔に呆れたと肩を竦ます。
「始めからそう言うと思っていたさ。せいぜい荊の道を進め、アストライア」
ほら。無造作に放り投げられたそれは青石の付いたアームカフ。ピアスと同じ色の透明なライトブルー。
魔力を結晶に注いで造ったそれは負の浸蝕を妨げ、抑制する。「気休め程度に」と付け加える青の賢者が投げたリングを両掌で受け取ると代わりに落ちた荷が砂浜の上でくたりと倒れた。
「謙遜にしか聞こえない」
「誰かと違って謙虚だろう?」
ありがとう。
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨