LOVE FOOL・中編
ふいにシャワーカーテンの向こう側から人影が含み笑いを零す。身体を一層深く浴槽に潜め叫ぶと、声の主はゆっくりと半透明のカーテンを開けた。
「―っ!?誰、だ!」
語尾が僅かに裏返る。一糸纏わぬ姿のヴィヴィアンヴァルツを見下ろすその男は。
見覚えのある銀髪。紫の双眸。肢体の曲線と肌の色に至るまで。間違え様も無い、良く知る顔の人物が初めて目にする表情でふわりと微笑む。
「二度目だね、美しい人。
本来なら身体を借りてる間、意識は持たせないんだけど。今日は君に聞きたい事があってさ」
もう一人の自分。ヴィヴィアンヴヴァルツが。
そこに居た。
自身ならは絶対に袖を通さないであろう、黒と灰色の衣装以外は完全なコピーに声を呑む。
大きく開いたシャツの間から覗く痣は、今はもうはっきりと黒薔薇だと判る様相をしている。
知らないうちに掛けられていた罠の効力にぎりり、と口を噛むも浴槽の中で身を小さく丸めるしか出来ない。偽物はヴィヴィアンに重ねて問う。
「死体が完全に人の形をしていなくても蘇生は可能かな?」
「借りてる、って――は?」
第一声の言葉すら呑み込むまで時間が掛るというのに、男は尚話を続ける。
「ラモナで王子を生き返らせたのは知ってる。
君が余計な事をしてくれた御蔭で僕の大事なパートナーはこの有様だ。嫌だとは言わせない、緑薔薇を生き返らせろ」
お前のせい、と掲げられた「それ」をヴィヴィアンは一目で判別が出来なかった。
両腕に収まる大きさの濃く深い、紅色の薔薇が咲き誇るアレンジメントブーケ。丸い鉢にしては不格好な形だけれど、所々の小さな穴から生える赤薔薇が不思議な空間を…。
首を傾げて見つめていたが、喉をせり上がる胃液をプライドと手で押し戻す。穴だと思っていた空洞は彼女の両眼、耳。
頭蓋骨の空洞を割って皮膚を裂く茨と鮮血を吸って色付く紅の薔薇。
甘く熟れた香りに死臭が混じる。
「これ、は!アリアドネ!?」
アステリオスとテセウスを殺せなかった罰とでもいうのか。首から下は鋭利な刃物で切り取られた痕。
切り口が血で汚れて居ない処を見ると、死んでから切断した様だ。黒薔薇は掴んだ首を大切そうに抱えコートに包む。
「彼女を蘇らせてくれたら君はこのまま無傷で国に返す。
断るなら引き受けてくれるまで、この身体を使ってザニアを破壊する。ラモナの時みたいにね」
睨みつけるしか反抗の意を向けられないヴィヴィアンを嘲り、同じく完璧な容姿のもう一人が口許を曲げた。
「お前がやったのか」
「君の力でね」
一夜で破壊されたラモナの城が脳裏に浮かぶ。
自分の知らない処で、あの国の境界から黒薔薇の罠に掛っていたなんて。考えれば考えるほどふつふつとした怒りが沸く。
「どうする?」
再度訊ねられ、ヴィヴィアンは頬から顎を伝う汗を拭った。首だけの凶悪な魔女がどんな姿で蘇るのか想像もつかない。
黒薔薇は俺がアステリオスを生き返らせたと思っている。ならば「違う」と言えば良い。素直にイシュタムの能力で蘇ったと、だから脅しても時間の無駄だと。
そう言えばー。
目の前に晒された首が今度はあの二人に変わるだけで。
「…蘇生は、…俺じゃ…」
途切れ途切れに言葉を吐く度、湯の中に浸っているのに四肢の末端が血の気を失う。
本当の事を話して身体を返すとも思えない。
どちらが正しい選択かは判っているが、ヴィヴィアンはやはり自分が可愛い。黒薔薇と緑薔薇の首と。視線を彷徨わせ言い淀む魔法使いへ、次第に紫瞳が温度を落とす。
造り笑顔を貼りつけ流れる銀髪を耳に掛ける。その自然な仕草に警戒が遅れた。
「答にくいなら、少し痛い目に合おうか?」
温厚な口調で偽物のヴィヴィアンはシャワーを掴み、温度設定を最大まで上げる。残酷に歪む自身の唇にぞくりと瞳孔が収縮した。獲物をいたぶる仕草で蛇口に手を伸ばす。
顔に向けられたシャワーヘッドから降りかかる温水はおそらく75度から100度。
「正しくは「熱い」かな?」
「っ、―――!!」
重度の火傷を予期して甲高い悲鳴が上がる、と。
ノブにカードが下がっていた筈の扉が外から力ずくで押し破られた。
体当たりで飛び込んできた黒コートに黒髪、赤いメッシュの青年。隣部屋で待機していたラームジェルグは慣れない荒事によろめきながらも湯気の向こう側に居る佳人を見つける。
「ラームジェルグ!」
悲痛に名を呼ぶヴィヴィアンを見ればバスタオルを引き寄せただけの露出具合で思わず喉を鳴らす。
「ヴィヴィアン!?入浴中!?ごめ…、悲鳴が聞こえたから」
「バカ!前を見ろっ」
勘違いでドアまで破壊したかと、とたんに狼狽える親衛隊長に一喝し、舌打ちと共に戦闘体勢の偽物を顎で示した。
「全く。厄介極まりないよな」
自ら引き受けたものの稀に見る大仕事にぐるりと右肩を回してぼやく賢者に対し、エルライが傍らでニコニコと頷き微笑んでいる。
「そうですわね」
無造作に積み上げられた過去の貢物から適当な装飾品の腕環を一つ取り出し中心の水晶を外す。
鈍い銀色の台座に埋め込む石は青い宝玉。
妹の形見だと、一方にだけ着けたピアスに似合うブルーは、ユプシロンの節制の言霊と魔力を吸収し易く、アストライアの精神下にも伝わり易い色だった。
乗り気では無い風を装いながらも、客人が去った途端直ぐに机に向かう面倒見の良い青年の肩に手を乗せ覗き込むと長い息を吐く。
「この事故は初めてじゃない。おそらく何度も計算され、改善を重ねて実験されている。
他人の命を身代わりに禁忌の魔術を仕掛けるなんて悪魔や魔族ですらしない強行。こんな事が思いつくのは人間、それもとびきり歪んだ性根の、欲深い人そのものだ」
「召喚」とは契約である。
現れる精霊や魔族は彼等なりプライドが在り、形式を重んじ、祈祷の様な気難しい美辞麗句を並べたてて漸く現れるが、失敗して現れるよっぽどの野次馬じゃない限り世界に干渉したりしない。
厄介なモノに心酔する、厄介な相手に目を付けられたな。
難しく結んだ口から零れるのは幾度目かの「厄介」だと云う台詞に深い溜息。
それでもこうして自分に話しかける間は心配無い。
「…そう…ふわ…」
相槌を打とうと開いた口が欠伸に変わる。閉じる瞼に違和感を覚えエルライは指で擦った。
ずしりと根元から、爪先から冷たくなる様な力の抜ける重い眠り。
そんな季節でも無いのにどうしたのかしら?
「エルライ?」
怪訝に感じたのは彼女ばかりでは無かった。
ユプシロンもまた途切れた曖昧な返事に名を呼ぶ。
それでも無言の返答に作業の手を止め振り返ると、薄い若草色の髪が舞い上がり崩れ落ちるしなやかな身体を何者かの腕が抱き支えている処だった。
「此方の作戦をあまりバラさないで欲しいな」
「!」
椅子を倒す勢いで立ち上がり、声の主を睨みつける。
倒れたエルライは足許から身に纏わりつく荊と漆黒に咲く薔薇とに能力を拘束され、瞳を閉ざす。
折れそうな彼女の腰に腕を回し、肩膝を着く銀髪の美貌は腹立たしいほどに息を呑む光景。
見覚えのある姿。ヴィヴィアンヴァルツ。
けれど声音は仄暗く乾いていた。
「ヴィヴィアン…じゃないな。ふん、黒薔薇、黒幕登場って訳か」
姿形は先刻、別れたばかりの魔法使い。だが。
中身は別人が入り込んでいると瞳の色で直ぐに判る。
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨