LOVE FOOL・中編
標的を定め、仕掛ける「呪い」とは全く趣旨も効果も別物だ。妹に掛けられた術がアストに邪魔され、その結果魔方陣とともに効果も転写された。
ヴィヴィアンでさえ目にするのは初めてだったが。
話を振られ、魔法使いは顔を上げる。
「俺達は『厄』と呼んでいる。
お前の妹を生贄にして呼び出された「何か」は恐らく…」
悔し気に口端を噛む。
語尾が徐々に小さくなる言葉をアストは紡いだ。
「今、俺に取り憑いてるって訳か」
自嘲を浮かべ俯く騎士を見据えユプシロンはパン、と手を打ち、席を立つ。
「まあ。しかし、だ。
頼って来た者に何もせず返すのは俺のプライドが許さん、明日また来い」
それからくるりと背を向け部屋の扉にサラサラと護符まがいの文様を描き始めた。ヴィヴィアン達が入って来た方とは別の少し部屋の内装から浮いた藍色のドアだ。ノックを二回、ノブを左に回して扉を開くと向こう側にはザニアの街並みが広がっていた。
「封じ込めの防具を仕込んでおいてやる、少しは腕の見栄えも良くなるし、制御しやすいだろう」
「有難う、それは助かる」
アストライアの礼に長髪をさらりと肩に払い、腕を組む。街の宿屋がすぐ傍に見えた。
青の賢者は問題のある一行をカーラの森に通すつもりは二度と無いらしい。話終わると聞いていたかのタイミングでエルライが何やら談笑をしながらラームジェルグを連れて戻って来た。至れり尽くせり。
「楽しそうだね?」
「ええ、ユプシロン以外からのコイバナは新鮮でしたわ」
「こちらも楽しかったよ、エルライ嬢」
面倒見の良い賢者と森の精霊に軽く頭を下げ、二人は我先にと部屋を飛び出す魔法使いの後に続いた。
警戒されぬようにと怖々ノブを回す此方が拍子抜けするほど。宿屋の主人はさほど驚く風もなく、扉から現れた客を手際よく迎えた。
青の賢者が異国の客を送迎するのはよくある事で、彼等は何も問わずそれぞれに部屋の鍵を手渡し、荷物を運ぶ。観光ならまだしも、呪いを抱えた者に不必要にこの地を踏んで欲しくないのだろう。
過去に深手を負った国なら尚の事。
「今夜はもう休んだ方が良いな。二人共、そんな顔してる」
「…。そうする」
口数の減った佳人を気遣いラームジェルグが声を掛けると、辛うじて短い返事が返る。
一日が無事に終わり賢者に逢えた今、元々耐性の薄い身体に蓄積された疲労が圧し掛かっているのか。
まだ何かを話したげな友人の前を素通り、ヴィヴィアンは暗い表情のアストライアに一度視線を投げ華奢な体躯を生ける死者の様に引き摺った。
最上階のひと際煌びやかな客室にがしゃり、と硬く錠の掛る音が廊下に響く。ラームジェルグの部屋はその隣、アストライアは一階の離れた最も安価な客室だ。
最もそれは構わない。
持ち合わせはさほど多くは無かったし、借りるつもりも無かったが。
気に入らないのは…。
「何か?」
他意を感じる部屋の取り方にしばし立ち止まっていたアストに冷ややかな声を投げた。一人反対方向のアストを手で追い払う仕草をして旅の案内人は黒いマントを脱ぐ。
「朝まで何かあってもこっちに来るなよ?一般人」
「お前が良からぬ事をやらかさなければ」
「親友同士が朝まで語りあうのは良からぬ事じゃ、―あっ」
年下であるも見栄えのする整った顔立ちに笑みを浮かべ、くるりと正面に向き直るとノブには「起こすな」のメッセージ。
ドンディスカードがぶら下がっていた。思わず漏れた自身の声にぎりぎりと口を結びながら、背後で小さく吹き出す気配を睨む。
「今、笑ったな?」
「いいや?俺も休むかな」
否、と応えるも逸らした顔には少しの微笑が漏れている。
これなら心配はなさそうだ、と。
残念そうに扉を見つめるラームジェルグを残し、ユプシロンと出会えて重荷が解けたのか欠伸を一つ噛むアストライアも今夜は早々休む事にした。
思えば国を出てからずっと誰かと「普通」の会話をして、「普通」の生活リズムで動いていた事が無かったせいだろうか。異国で、賢者の監視下で。気が抜けていたのかもしれない。
この時は何者かに狙われる憂慮など少しも頭になかった。
(なんだか疲れた。とても眠い…)
扉一枚隔てた二人の自分を巡るやり取りをつゆ知らず。船の中でもずっと寝ていたーもとい意識がなかったヴィヴィアンだったが一歩賢者邸から出るなり重力が増した風な身体のだるさにばったりとベッドに倒れ込む。
糊の効いた真っ白なシーツの上に銀色の髪を擦り、半身だけ倒れる様は滅多に晒さない醜態でうつ伏せた顎をスプリングの上に乗せたまま、後ろ手で器用に上着を脱ぎ捨てる。私邸でならすぐに脱がせてくれる過保護な家主達もここには居ない。
それから空調が微かに運ぶ花の香りに首だけを横に傾けると深紅の花弁で彩られたバスルームが視界に映った。
入浴好きなヴィヴィアンの為にとラ―ムジェルグが用意させたであろう白磁器の大きなユニットバス。
淡いラベンダー色で統一されたタオル一式。パステルカラーの入浴剤。
「…。」
壁に掛けられた時計を見上げると、時刻はそれほど遅くない。銀糸を梳くと潮の粒が指の間にざらりと触れる。
気だるさと湯浴の誘惑とを決めかねていたが、
やはりこのままベッドに入るのは気持ちが悪いか?
ヴィヴィアンは眉間に縦皺を刻んで無為に立ち上がると磨き上げられたコックを捻った。
「もっと早くに気付くべきだった」
浴槽の縁に浅く腰かけ、温度を確かめながら呟く。
気弱な声は蛇口から注がれる水音にかき消された。
青の賢者ユプシロンも当然見抜いていた筈。
だからこそ軽率に口にしなかったのだろうか?
突発事故による災いの解除方法など、どこにも存在しない。
鏡文字の魔術呪文。中断された召喚儀式と生贄。対の男と女。双生児。相手はアストライアが火傷を負う事も予測していた。だとしたら、それらは全て意図がある様な気がするのに。
イエソドの書庫で問題集を解く様、机に向かってゆっくり考えれば解けそうな謎は絡まったまま、頭の中で不愉快に燻っている。
魔術に関する知識がいくら豊富でも、それを企む人の邪心まだは他者を理解しないヴィヴィアンヴァルツにとって到底解せない未知の領域。望むまま生きて来た彼には、他人を踏み台にしてでも何かを手に入れようと成す者の心境がまるで判らないのだ。
立ち昇る湯気に包まれながら襟元からシャツのボタンを順に外し、そういえばと自身の胸元に視線を這わす。掌に収まる程の丸い黒痣。痛みの無いのが殊更不気味なそれは。
「…うん?」
指先でシャツを引き、薄眼で怖々覗き込むとそれは跡形も無く失せていた。
「消えてる」
―良かった。
バスボールの溶けたピンク色の泡に爪先から全身を浸し、タオルで髪を頭上に纏める。安堵の溜息を吐き、ぶくぶくと湯の中に沈む。自慢の傷一つ無い肌を撫で、外れない10の指輪を眼前に甲へ掌へと裏返して見た。
右手の人差指。左手の親指、人差し指、薬指と残りはわずか4つ。タイガーアイ、サファイア、ターコイズ、
ダイヤモンド。
「お前達のどれかが俺の呪いも解いてくれれば良いのにな」
異なる精霊の輝きは何も応えず、静かに輝く。
「そんなに気に入らなかったかな?薔薇の烙印は」
ヴィヴィアンの独り言がよほど可笑しかったのか。
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨