LOVE FOOL・中編
最も納得のいく仮説をばっさりと否定し、自らの手に剣が無い事に気付く。部屋の端に立てかけたままになっていたと、視線を向けるも取りに戻れるほど悠長な相手では無い様だ。
「出たかニーズホッグ。本来の姿で直々お出ましとは光栄だ、今宵はどうしても丸呑みしたい獲物がこの中に居るらしいな」
片手に持っていた酒瓶を空にし、慌てふためく二人の頭上からジャーロはにやりと笑む。
操縦桿にずっしりと両手を掛け、船の速度を上げた。
「丸呑みしたい獲物」そう言われ、眠るヴィヴィアンヴァルツの姿が脳裏に浮かぶ。
老若男女だけでは飽き足らず魔物まで虜にするのか、あいつは。
周囲を見回すとつい先刻までの景色は一転し、天地も溶かす闇の宙に深紅の亀裂が広がって行く。
これが世界の狭間に突如出現するという「奈落」。
時空の狭間から這いずる生物は異世界同士の繋がりを拒絶し、文明の橋渡しとなる旅人を好んで捕食するという。
不安と焦りで説明的になるラームジェルグの講釈を聞きながら、アストは無意識のうち右手の忌まわしい文様を握り締めていた。「ニーズホッグ」と呼ばれた生き物は黒い影の様な躰から六つの赤い単眼をぎらりと開くと白波を立ち上げ、追い付かれまいと海上を駆けるグングニルの船体を捉え触手で絡め取る。
不穏な軋みを上げ、外装が震えた。
「アストライア!伏せろ!!」
海水に濡れた蒼く光る手は、最もこの場に適応していない人間から奈落へ誘う。術も無く呆然と立ち尽くす騎士を、仕込み杖の剣を抜いたラームジェルグが突き飛ばす。
紙一重の処で斬り落とされた触手が体液を撒き散らしながら足許でのたうつ。
「何時まで怯んでる!お前の護衛まで引き受けた覚えはないぞ」
「ああ、済まない。大丈夫だ」
すんなりと異大陸には到着出来ないとは思っていたが、彼にとっても勿論ジャーロにとっても。ここまで敵意をむき出しにした襲撃は初めての事だ。締め上げられ、ヒビの入った箇所から水が流れ込む。
「おいおい、マジか!」
もはや笑いしか浮かばない。そんな緩んだ操縦士の視線を辿る先は船底に広がる巨体。背中だと、躰だと思っていた部分がぱっくりと二つに裂けた。
「これ、全部…」
「口、だと!?」
大きく口を開き獲物を左右から閉じ込め食す、最も近い形容する生物を挙げるのならそれは蠅捕草。
通称「ビーナス・フライトラップ」
獲物を捕える二つの葉に着いた棘を女神の睫毛だと称する食虫植物。植物であるなら近寄らなければ良いだけの話だが、質の悪い事にこれには海面を泳ぎ絡め取る触手が着いているのだ。
踝まで海水に浸り、投げた酒瓶が沈みかけた甲板を転がる。
「俺の右腕を斬れ」
アストライアは片腕の包帯を解く。
背中合わせに立ち、構えていたラームジェルグは見た事も無い呪詛が焼き付いた痕にぎくりと顔を見上げた。
「お前、何を錯乱してっ」
「こいつを、焼き殺す!」
一瞬、闇が宿主の殺気に応えるかの様に渦巻く。
叫ぶアストライアの眼が陽色から一点のインクを零して黒く濁る。そんなイメージが闇属性を専攻した若い魔法使いに流れ込み、重圧に膝を着いた。
悲鳴と怨嗟が絡みつく力の源。代々命を奪われて来た血族だからこそ、判る。
他と比べようがないほどの禍々しさに。
「その腕は…一体」
鉄の船体が押し潰され、軋む。
紅い口の小さく鋭利な牙が並び、喉奥には歯車とスクリューが埋め尽くされていた。廃品処理場の機械音を奏で、もはや有機物と無機物かも解らないこの怪物は。無数の触手を伸ばし二人を追い詰める。
ヴィヴィアンヴァルツが起きて来ない事だけが幸いか。
「ジャーロ!まだ終わらないのか!?」
痺れを切らしたラームジェルグが剣を床に刺し、傾く身を支えながら差し出した腕を掴む。
他に策でもあるのか。
足許や躰に巻き付こうと飛び掛かる手を器用に潜りながら寝室へと転がり込むと、天井窓からジャーロが滑り下りて来た。
「!??」
逃げ場の無い密室に籠って何をしようというのか?
瞳を瞬くアストを余所に、安堵の溜息を吐くラームジェルグ。ベッドサイドで膝を抱えると、キャプテン・ジャーロは自慢げに腕を組みにやりと笑った。壁に背を預け小型のワインセラーから透明色のアルコールを取り出す。
「グングニル舐めんなよ」
船の外観は限界の悲鳴を上げ、とうとう鋼鉄の板がへし折られ海水が堰を切って流れ込む。
同時。そのダメージをも勢いに変え、一室がメリメリと船体から剥がれた。
闇の抜こう側まで放たれた鎖は真っ直ぐに前方を射抜き、奈落を貫通する。槍先は鎖を連なって寝室を丸ごと引き上げ、海面を大きく文字通り、飛び越えた。
貫通した闇の先は異大陸。
岸の数メートル先に跳ね返りながら転がったグングニルの脱出船は地面に叩きつけられながらもほぼ無傷であったが、一方引き寄せた鎖に繋がれていた船本体は食いちぎられ、見る影も無い。鋼鉄をも砕く牙に人の身などひとたまりも無かっただろう改めて背筋が凍った。
流れついた残骸を拾い集め、ジャーロは早々と帰る準備を始めている。
「船、ばっくり喰われたな」
「残骸が少しでも残っていればまた造れる」
対岸の森に衝突し留まった後、白い砂を踏みアストライアは辺りを見回す。波が打ち寄せる海岸の向こうには新緑の森が広がり、木々の隙間から鳥が囀る。
シェステールの活気ある港街とも違う。
穏やかで澄んだ冷たい風に思わず咳き込む。
「なんか、空気が変わった様な」
少し息苦しい。胸に手を当て、喉を鳴らすと旅行鞄を手にしたラームジェルグがさらりと答えた。
「実際違うからな。此処の大気は精霊が宿る、免疫の無い物がいきなり来たら幻覚との区別がつかなくなるらしい。
中間にシェステールを経由するのはその為の肩慣らし、といった処だな」
全く世話好きな国王だよ。あの人は。
まるで知り合いの様に独りごちると「さて」と仕込み杖の先で砂浜を軽く二回叩いた。
何の占いか?と自身も荷物を背負い、後に続く騎士の眼下で砂粒は見えない手に撫でられたかの様に滑らかに動き、地図が描かれた。
ザニア王国、賢者の棲むという森。目的地までの道のりが細かく記される。驚き言葉も出ないアストに魔術師はふふんと鼻で笑う。
「!」
「だから俺は役に立つって言っただろ」
この世界の道は大地自身に聞くのが手っ取り早い。
相変わらず勝ち誇った態度で嘲笑うも、これまでとは違う親愛が込められていた。
「何なんだ?随分荒っぽいな、頭が痛い…」
地霊が示す道筋を眺め、都で宿を取ってから行くか直ぐにでも賢者邸に向かうか。
思案していると目を覚ましたヴィヴィアンヴァルツが後頭部を押さえながら呑気に部屋から出て来た。
一歩踏み出す靴底に甲板は無く、外で在る事に甲高い声を上げたがそれもつかの間。
異大陸だと判ると満足気に腕を組みながら此方に歩み寄る。
「よしよし。無事に着いたんだな」
ふわりと銀髪を梳き、不器用にヒールの着いた靴で砂の上を歩く。
「漸くお目覚めか。お姫さまは騎士に守られ良い気なもんだな」
「姫?誰が??」
変わらないジャーロのずけずけとした物言いに二人は頷き、それから苦笑混じりに顔を見合わす。
「全くだ」
「ふふっ」
「な、何だよー!」
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨