からっ風と、繭の郷の子守唄 第76話~80話
康平が目指しているのは、県境の町、安中市の松井田町。
今も操業を続けている、『碓氷製糸農業協同組合』の建物。
貞園がピンボケ写真を撮ったあの日。
康平の店を訪ねてきた千尋は今度の日曜日に是非、私の住む安中市へ
遊びに来てくださいと、申し出る。
『先日の島村のお礼に是非』と重ねて懇願されてしまう。
こうなると、康平も断ることができない。
『喜んで』と答えると、千尋が『では碓氷製糸場の門の前で、午前8時に』
と笑顔を見せる。
『今日は用事がありますので、このまま失礼します。
でも、こころの底から、日曜日を楽しみにしています。では、そのときにまた』
と康平の店を立ち去っていく。
貞園はこの時の2人の会話に気がついていない。
ただ、度々このあたりで見かけるようになったことから、気になる女として
貞園から、マークされることになる。
その結果としてコーヒーショップの2階から、携帯のカメラで
狙われることになる。
(貞園には驚ろかされた。だが写真がピンボケのために助かった。
首の皮一枚を残して、助かったようなもんだ・・・)
苦笑いの康平が、市街地へ入る長い直線で、アクセルを開ける。
康平の目の前に、『安中公害訴訟』とエキゾチックな夜景で有名になった
東邦亜鉛・安中精錬所の全景が迫って来る。
工場は、JR安中駅の裏手にある小高い山の斜面一帯を這うように広がる。
敷地は、およそ50万平方メートル。東京ドーム10個分に相当する。
広大な敷地内に、パイプやコンベヤーが迷路のように張り巡らされている。
夜になると工場全体が、ライトによって幻想的に浮き上がる。
鉱石から亜鉛や硫黄などを取り出すため、工場は24時間、休みなく動く。
製錬所の設立は1937(昭和12)年にさかのぼる。
その頃の製錬所は、鉱山や港のある沿岸部に建てられること一般的だった。
そうしたなか。地元の雇用創出や鉄道、道路などのインフラが整っていたことが
決め手になり、山あいの安中市に建設が決まった。
ひな壇状に全景が見渡せる形で工場が建てられたのは、全国的に珍しい。
工場から排出するカドミウムが原因で、農地汚染を引き起こした過去も有る。
過去の苦い経験を踏まえ、地元の信頼を深めるため、小中高生の社会科見学を
受け入れるなど、地道な活動も展開している。
国道18号は、東邦亜鉛を通過した後、市街地を大きく迂回していく。
市街地の北端で、再び旧中山道の杉並木と合流する。
(7時30分。到着が少し早すぎるな。気持ちが急いているため、飛ばしすぎた)
時計を見つめた康平が、小さくつぶやく。
速度計はさきほどから、80キロを推移したままだ。
(はじめてのデートに浮かれきっている自分がいる・・・
これじゃまるで、どこかの小僧っ子と同じだ。若いな、俺も・・・)
時間を調節するために、康平が、ようやくアクセルを緩める。
あらたに作られた道は、『松井田バイパス』と呼ばれている。
『上毛三山パラダイス街道』という別名も着いている。
杉並木を抜けると国道18号は、雀のお宿で知られる磯部温泉へさしかかる。
碓氷川にそってひろがる民話の温泉町をぬければ、約束の場所の
碓氷製糸場まで、もう目と鼻のさきの距離になる。
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第76話~80話 作家名:落合順平