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 印刷された臨時ダイヤグラムを見て、指令長たちは舌を巻いた。それは完璧なダイヤだった。湖西線で発生した遅れを一時間以内に回復できる。しかも、それは、ただのコンピュータがはじき出すような理想主義のダイヤではなかった。見事なダイヤの間引きは言うまでもない。乗客の乗り継ぎや、遅れが拡大しやすい場所が考慮されており、さらには、乗務員の癖までもが反映されていた。
 指令長たちは深いため息をついた。
「なかなかやるじゃないの」
「はあ、これで我々もリストラ対象だな。新幹線〇系、ブルートレインがなくなると思えば、その次は我々指令員か。時代も変わるもんだな」
 総括指令長は自嘲気味に笑うと、力なく椅子に座った。

「あ!」
 指令員の声が響く。彼が指差す先には、山科駅の線路配線図が表示されていた。全員がスクリーンに釘付けになる。
「新快速が山科駅の下り通過線に止まってます!」
「何!?」
 指令長の焦った声が続く。
 総括指令長の脳裏を悪い予感がよぎった。山科駅は東海道本線と湖西線との合流駅であり、寝台特急『日本海』の通過駅でもある。もし、この異常が重大なものであれば、『日本海』の運転をここで打ち切らなければならない事態となるかもしれない。

 新快速の運転士からの無線が響く。
『こちら三四三九M運転士、新大阪輸送指令どうぞ』
 我に引き戻された指令員は慌てて応答する。
「こちら新大阪輸送指令、三四三九M運転士どうぞ」
『三四三九M運転士です。えー原因不明の分岐器の異常により、誤って通過線に進入しました。後退してもよろしいですか? どうぞ』
 指令員が担当の指令長を見上げると、指令長は頷いた。
「三四三九M運転士、分岐器の操作を完了するまで、停車して待機してください。どうぞ」
『停車して待機の旨了解』
 指令員は画面上に後続の列車がいないことを確認すると、コンピュータを操作して分岐器の方向を切り替えようとした。既に一番のりば側に戻っていた分岐器を、再び通過線側に向けなければ、その新快速電車が後退したときに脱線してしまう危険があるからだ。
「あれ?」
 指令員が首をかしげる。分岐器は凍り付いたように動こうとしない。彼は、再び同じ操作を繰り返すが、結果は同じだった。
「分岐器の操作ができません」
「では、前進して一旦本線に出してから、山科駅に後退させてみよう」
「京都方の分岐器も操作できません」
「つまり、三四三九Mは通過線に閉じ込められたってことか……」
「はい」
「臨時ダイヤ入力で何とかならないかい?」
 指令員はコンピュータ端末を操作するが、臨時ダイヤの入力すら受け付けようとはしなかった。
「だめですね」
 指令員が無線を飛ばす。
「こちら新大阪輸送指令、三四三九M運転士応答できますか、どうぞ?」
『こちら三四三九M運転士、どうぞ?』
「分岐器の操作ができないため、現在の位置で待機して下さい、どうぞ」
『え? 待機ですか?』
「はい、待機です」
『こっちはお客さんが待ってるんですよ!?』
「分岐器の操作ができませんので――」

 しかし、それは序の口でしかなかった。
 その直後から、列車無線に怒号が飛び交い始めた。管内の全域で同様の異常事態が発生しているのだ。予期せぬ線路に進入した列車や、安全装置が誤作動し急停車した列車。信号機という信号機が赤になる。それは関西全域の鉄道網が麻痺状態に陥ったことを意味していた。

 総括指令長の森山は、昨日までCTCの制御盤が置かれていた場所を見つめた。その部分の壁だけがやけに白い。もし、その制御盤が残っていれば、手動で信号や分岐器を操作して列車を運行することができたはずなのだ。
 だが、アイトラスに異常が起きた今、アイトラスの一部となったCTCもまた制御不能だった。これでは、寝台特急『日本海』の最終列車を運転するどころか、列車一つとして運転することができない。
「言っただろう、だからコンピュータは……」
 と、彼は呟いた。
 とはいえ、いつまでも電車を止めていくわけにはいかなかった。秒針が進むごとに億単位の損失が発生してゆくのだ。もし夕方のラッシュ時までに復旧できなければ、公共交通機関としての信頼も失墜するだろう。それに、寝台特急『日本海』は何としてでも最後まで走らせなければならない。
 総括指令長は、テーブルにダイヤグラムを広げ、胸ポケットから定規とペンを取り出した。今こそ職人技が必要とされる時だ。
 彼の声が指令室に轟く。
「動かせる列車は、片っ端から動かすぞ!」

  *

 寝台特急『日本海』は大津京駅に臨時停車していた。長時間の停車が予想されたため、車掌の判断でドアを開いていた。この駅の近くには京阪|皇子山《おうじやま》駅があり、急ぎの乗客が乗り換えることができるからだ。
 車掌の小野田は腕時計を見てため息をついた。強風による遅延にこのトラブルが重なり、列車は既に一時間半以上遅れている。自分の手ではどうすることも出来ないという無力感に苛まれながら、彼は車掌用の時刻表を眺めた。列車番号は「九〇〇二レ」。それが哀しい事実を物語っていた。九〇〇〇番台の列車番号は、その列車が臨時列車であることを意味している。そう、ダイヤ改正日を跨いだ『日本海』の最終列車は、もはや臨時列車「九〇〇二レ」でしかないのである。ただでさえ普通列車に追い抜かれるようなダイヤなのだ。ダイヤが乱れればなおさらだろう。定期列車だった「四〇〇二レ」の『日本海』とは、扱いが異なるのである。
 彼は怒号の飛び交う列車無線にうんざりしていた。それに、ずっと座っていたからだろう、ずしりと腰が痛む。もう若い頃のようにはいかないのだ。彼は無線対応を他の車掌に任せると、車内を巡回することにした。ちょっとした散歩である。これも今日が最後だ。
 くたびれた車内は、まるで古いビジネスホテルのようだった。消毒薬とカビ臭さの入り交じった独特の臭いが鼻をつく。車端のデッキや水回りには錆が目立ち、客室内の床には所々黒ずんでいる。良く言えば昔懐かしい空間、悪く言えば昭和の遺物である。
 A寝台車には、通路に平行なカーテン付き二段ベッドが、通路の左右にそれぞれ七台ずつ並んでいる。ベッドの幅は他の車両に比べて若干広いが、利用料金も高い。ここ数年間は利用客が皆無という日も少なくなかった。今日のように満席になるのは奇跡に近い。
 一方、B寝台車のベッドは、通路の片側のみにあり、通路と垂直、枕木方向を向いている。一両につき十五から十六台のカーテン付き二段ベッドが、それぞれ二台ずつ向かい合わせになって並ぶ。ベッドの幅は狭いが、数も多く、なにより寝台車の中では最も料金が安い。それでも、今日のように満席になることは希だった。
 結局、寝台特急の廃止は避けられないことだったのだ。だが、老車掌は満席の車内を巡回しながら、いつもこれだけの乗客がいれば廃止されなかったのに、と思わずにはいられなかった。

 B寝台車では、鉄道マニアたちが、いち早く情報を仕入れていた。小太りの男が携帯電話の画面を見せながら、興奮した様子で青シャツの男に話しかけている。
作品名:AI-TRAS 作家名:kikuya