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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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幕間30分(湊人の章)

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 トイレから戻ってきた悠里と晴乃が「どないしたんよ?」と言ってサラの顔をのぞきこむ。それでも涙は止まらなくて、サラは「悠里の歌に感動したんや」と繰り返し言っていた。「女の子を泣かすなんて罪なやつやなあ」と宮浦に散々からかわれた末、湊人は彼らを戸口まで押し出した。



 長い一日がようやく終わる――肺にたまっていた空気を吐きだすと、また木製のドアが押し開かれた。

「私、携帯わすれてない?!」

 そう言って悠里が大慌てで客席にかけこんでいく。すぐそばのテーブルに残されていた携帯電話をさし出すと、悠里は安堵の面持ちでそれを受け取った。

「坂井くんは、プロのミュージシャンを目指すんやね」
「うん。倉泉は?」

 湊人が問いかけると、悠里は携帯電話を握ってしばらく宙を見つめてから、言った。

「私はまだ……特にこれをしたいっていうのが、決まってないねん。だから坂井くんみたいに夢を追っかけてる人を見ると、眩しすぎて目がくらんでしまう」

 そう言って眼鏡の奥にある瞳を細める。

「お兄ちゃんみたいに音楽の道を貫くのもいいなと思うけど、私には何かが足りひん。だから今は勉強がんばって、いつか夢をもてたらと思うんよ」
「剣道は?」

 湊人がそう言うと、悠里は首をひねった。頭の中でいろんな思考が渦巻いているのか、なかなか答えが返ってこない。

「おまえ英語を話せるんだろ? だからアメリカで子供たちに剣道教えるとか、どう?」

 まじめに考えたつもりだったが、湊人がそう言った途端、悠里はクスクスと笑い始めた。

「俺、なんか変なこと言った?」
「ううん、じつは私のおじさんがね、アメリカで道場やってるんよ。それもおじいさんの代から。どんぴしゃすぎて、びっくりしたわ」
「なんだよ、もう道ができてるのか。それじゃおもしろくないなあ」

 他にいい案はないかと湊人が唸り声を上げると、悠里ははじけるような笑顔を見せた。

「今日はホンマにありがとう。おかげで、試験がんばれそうやわ」

 悠里がこげ茶色のポニーテールをひるがえす。湊人はあわてて肩をつかむ。

「あのさ、受験が終わったらギター持って『QUASAR』に来いよ。ジャズ教えてやるからさ。それで、そのときにさ……」

 湊人が言葉を濁すと、悠里はまた首をかしげた。眼鏡の奥の瞳が琥珀色に輝いている。

「俺に英語教えてくれないかな」
「ええっ、私が?」

 悠里が驚くのも無理ない。同じ高校とはいえ、会話をするのは今日が初めてだった。けれど一緒に演奏したことで彼女の心象風景を垣間見た気がして、妙な親近感を抱いてしまう。

「ジャズって全部英語だろ? 自分で訳してみるんだけど、どうにもうまくいかなくてさ。倉泉の発音、すごくきれいだったから。それに俺、いつかアメリカに行きたいんだ」
「坂井くんが、アメリカに?」

 湊人はうなずいた。漠然とした夢だったアメリカ渡航は、悠里の歌を聞くことで現実のものとして胸に迫ってきた。若い頃の父が暮らしたアメリカの大地を、どうしても肌で感じたかった。

「俺の父さん、プロのジャズピアニストだったんだ。もう死んじゃったから追い越すことはできないけど、父さんが見てた世界をこの目で確かめてみたいって思ってさ」
「お父さんの世界……」

 何か思うところがあるのか、悠里はぼんやりと遠くを見つめている。

「ウチはお父さんのこと、そんな風に考えたことなかったわ。いつか追いつかなあかんとは思てたけど。どんな世界を見とうか、今度会ったら聞いてみよかな……」

 そう言いながら、悠里はぱちんと指を鳴らした。

「そうや。卒業式のあとに謝恩会あるやろ? うちらバンドで出演するんやけど、坂井くんも一緒にでえへん? そしたら英語教えてあげる」
「んー……倉泉のバンドってパンク系だろ? 俺、そっち系は疎いんだけど……」
「謝恩会でやるのは『贈ることば』とか、みんなが知っとう曲やで。ちょうどピアニストを探してたんよ。交換条件で、どう?」

 そう言って悠里がにっかりと笑う。「QUASAR」で見知った人間とジャズを弾くならともかく、高校ではピアノを弾いていることすら隠している。そのことを承知の上で、悠里はにこにこと笑っている。この屈託のない笑顔にはどうにも弱くて、首を横にふることができない。

「……わかったよ。そのかわり絶対、英語教えろよ」

 湊人が渋々そう言うと、悠里は手に持った携帯電話を放りなげそうな勢いで万歳をした。

「やったぁ。サラとルノもきっと喜ぶわぁ」

 満面の笑みになった悠里は、何やら鼻歌を歌いだす。はっきりとは聞き取れないが、きっと謝恩会用の曲なのだろう。

 ふとサラの涙を思い出す。いつかの別れを覚悟している彼女の強さと弱さに、湊人は心を打たれた。目の前で小躍りしている悠里も、きっと気づいているだろう――目前に迫った門出のむこうには、それぞれ違う道が続いている――

 悠里はステージに目配せをしながらささやいた。

「堤さんとお付き合いしてるのって……あのベースの人?」
「そうらしいけど……なんでおまえがそんなこと知ってるんだ?」
「堤さんにチケットもらったときにね、ちょこっと話きいてん。きれいな人やなぁ」

 うっとりと年上の女性を眺める悠里を見ながら、湊人はため息をついた。

「おまえらを呼んだの、ノブさんだったのか……」
「音楽は人の縁を結んでくれるんよ。あの二人もうまくいくといいね」

 そう言ってにっこりと笑うので、湊人もつられて笑い返した。

「悠里ぃ、MMの車きたで。携帯あったん?」

 ドアのむこうから晴乃がひょっこりと姿を見せる。浮かれた悠里が「坂井くんがバンド入ってくれるってー」と言った途端、階段の上から転がり落ちそうな勢いでサラが飛び込んできた。

「ええっホンマなん?」

 そしてまた湊人を取り囲んでやいのやいのと騒ぎ始めたので、「いいからさっさと帰れよ!」と戸口にむかって押し出して行った。

 嵐が過ぎ去ったのを確認してため息をついていると、信洋がうしろから肩を叩いてきた。

「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ……」

 そうつぶやきながら、がっちりとした信洋の身体を見上げた。どこかうぬぼれていた自分に気づいて、こっそりと心の中で謝りながら再び握手を交わす。

「今度セッションをするからその練習のつもりだったんだけど、すごくいい経験になったよ。君みたいなピアニストに出会えて、本当によかった」

 他の誰かが言えばお世辞のように聞こえるセリフも、信洋が口にすると心からそう言っているのだと思える。

「それから高村さんは、ちょっとは腰痛マシになりましたか?」

 ギター用のシールドを巻いていた要が体を起こしてこちらを向く。

「ノブ君のおかげで、もうすっかり」
「また寝転がってギター弾いてたんじゃないだろな」

 湊人がそう言うと、要は腰のあたりを押さえながら言った。

「床に座って弾いてたはずなんだけど、気づいたらギターを抱えたまま寝てたんだ。起き上がろうとしたら筋肉が固まっちゃっててさ、朝からまいったよ」