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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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幕間30分(湊人の章)

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 カウンターの奥で作業していた店主の綿谷からはOKサインが出ている。

 要が小雪にこっそりと耳うちすると、彼女は頬をゆるめてクスリと笑った。内緒話をするように顔を突き合わせて笑っているのが気になるのか、信洋がうしろから様子をうかがっている。
 要は頬にえくぼを作って、ぽそりと曲名をつぶやいた。

 信洋の返事を待たずに、ギターをぶらさげたまま客席へせり出していく。要は極上の笑みを崩さないまま最前列に座っていた悠里の手を取り、そのままステージ上へと引きずり上げてしまった。

「えっ……ええっ! ちょっとーっ」

 驚きすぎて言葉にならないのか、悠里は何度もそう叫ぶ。湊人は今までの経験で、要の魂胆に気づいていた。案の定、戸惑う悠里にMC用マイクをつきつけている。
 ストリートライブで湊人を観客の前に引きずりだしたときも同じ調子だった。初音が野外ライブに出た時も同じ強引さだったと聞いている。要に腕を引かれた人間は、無謀だと思いながらも本能から湧きだしてくる期待と興奮に勝てなくて、彼の要望に応えてしまう。

 MC用マイクを握らされた悠里もまた、曲名を聞かされた途端に目の色が変わった。

 リハーサルのときにやった『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』を再現する――

 要は手早くチューニングをすませると、観客にむかって悠里を紹介した。すっかり要の虜になった観客たちが、歓迎の拍手を送る。悠里は照れくさそうに眼鏡のふちをいじりながら、けれどもう後には引けないと覚悟しているようで、しっかりとマイクを握っている。

「今夜のしめくくりは、みなさんご存知のこの曲で……」

 要はゆったりとそう言うと、湊人に合図を出してきた。ゆっくりと振りおろされる手を見ながら、高音から低音へと指を巡らせていく。

 音楽室の外で悠里が聞いていたという『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』は、父の録音テープに残されていた一曲だ。人生に絶望して自殺ともとられかねない事故死を遂げた父に、世界はどんな風に見えていたのだろう。

 酒におぼれ、妻子に見捨てられ、それでもジャズだけは手放せなかった父に見えていた素晴らしき世界――どうしてもその光景を垣間見たくて、この曲を弾き続けていた。

 悠里の歌声に、要が和音を重ねていく。振幅をくり返すその音色のむこうに、アメリカの大地が見える。それはきっと、家族に愛され、けれど言葉にはできないクォーターの悩みを抱いている悠里が見てきた世界。

 いつか自分も必ずそこにゆく――見果てぬ夢は湊人に限りないエネルギーをもたらしてくれる――夢も希望も、あきらめるにはまだ早すぎる――

 演奏が終わると、要は悠里の手を持ち上げて、一緒になってお辞儀をした。湊人と信洋も立ち上がる。サラと晴乃が感極まったのか涙をこぼしている。顔を上げた悠里まで「ちょっと泣かんといてよぉ」と鼻をすすり上げている。温かな拍手が彼女たちを包む。

 小雪が小さな手を差しだしてきた。湊人は服でぬぐってからしっかりと握手を交わした。その儚げな風貌からは想像できないくらい力強い手のひらをしていた。
 信洋とも握手を交わす。本番前に要の腰を気遣ってマッサージを申し出ていたその思いやりの深さが、今ならよくわかる気がした。要がふざけて「ノブ整骨院にまた行こうかなあ」と言うと、彼は「俺なんかでよければいつでも」と笑顔で返した。大きな手のひらから伝わってくる熱は、またひとつ湊人の心にやわらかな灯をともしてくれた。

               ***

 去っていく観客たちに挨拶をしていると、サラがひとりで声をかけてきた。

「坂井くんはやっぱり、プロ目指しとうの?」
「うんまあ……おまえはもう推薦決まってるんだっけ」
「受験であくせくすんの嫌やし、帰国子女枠で受けれるとこあったから、すぐ決めたんよ」
「日本の、大学?」

 湊人が何気なくそう言うと、サラは目を伏せた。

「そう日本の、大学」

 強調するようにそう言うので、湊人は率直に思ったことをぶつけてみることにした。

「おまえさ、アメリカに戻りたいとか、ないの?」

 サラの瞳が大きく見開かれる。あわただしく店から出ようとする観客のざわめきの中、彼女は小さく息を吐く。一目見れば異国の血が混じっているとわかるその容姿と、時おり飛び出すネイティブな発音のおかげで、彼女がクラスで浮いた存在になっていることは湊人も知っている。
 ただそれを彼女がよしとしているかどうかは、推し量ることができない。

 サラは周囲を見回すと、湊人につめよって言った。

「じつは……いつかは合衆国に住みたいと思てるんや」

 その声はなぜか暗くて、とても明るい未来を想像しているとは思えなかった。

「おまえくらい英語が話せれば、いくらでも仕事はあるんじゃない?」
「まあそれはね……あたし自身、むこうの方がコミュニケーション取りやすいし、正直こっちの暮らしに息がつまることもあるから」

 初めて聞く話だったが、クラスにいるときのサラを思い返せば、納得できる気がした。
 悠里たちといるときのサラは屈託なく内面をさらけ出しているけれど、クラスメイトと話すサラはどこか自分を押さえている。それは自分と同じで、隠し事をしている者が持つ独特の空気をサラにも感じていた。

「けどこの話、悠里とルノにはせんといてな。あの子らとおるときはほんまに楽しいし、向こうに住むってことは、サヨナラせなあかんてことやから」

 肩を落とすその姿に、いつもの強気なサラの面影はどこにもなかった。普段口にしないだけで、誰もが同じように、先の見えない将来に不安を抱えている。

「別にさよならってことはないだろ」
「どういうこと?」

 サラが目を丸くする。あまりに真摯な目で見つめてくるので、湊人は思わず顔を反らす。

「俺の尊敬してるドラマーが、今ロスでバンドを組んで活動してるんだ。二年前に渡航したきり会えてない。要も活動拠点は東京だから、今日はほんと久しぶりに会えたんだ。俺の姉貴も離れたとこに住んでて、めったに会えない」
「坂井くん……お姉さんおったん?」
「姉がいるってことを知ったのも、つい最近のことなんだ。ずっとバラバラだったけど、やっと出会えた。今はまたみんな違うところに住んでるんだけど、俺はさよならだとは思わない。俺はあの人たちのことをずっと想ってるし、もし会えたら今夜の演奏みたいに楽しくやれるって信じてる。遠いけど心はずっと近くにある、そんな感じ。だからおまえが向こうに住んだって、倉泉も牧もおまえのこと応援してると思うよ」

 湊人がそう言うと、サラは黙ってしまった。ぽかんとあいていた口が不意に閉じて、震えはじめた。何かまずいことでも言ったかと思ってのぞきこむと、サラはポロポロと涙をこぼしていた。雫の中に燃えつきそうなキャンドルの灯が映りこんでいる。

「……ほんまそうやね。あたし、アホやったなあ……」

 サラが震える声でそう言った。湊人が対応に困っていると、人ごみからにょっきりと姿を見せた宮浦が「おーおーどうしたぁ?」と言ってサラの頭をなでた。しまったと思った時にはもう遅くて、サラの涙は際限なくこぼれ続けた。