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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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幕間30分(湊人の章)

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 おまえの成績ならどこどこにいけるだの、奨学金があるからお金の心配はないだの、果てには大学に行かなければまともな職にはつけないなどと脅しをかけてきたのだ。

 うんざりした湊人は、率直に今後の目標を告げた。事故死したプロピアニストの父のこと、血のつながらない母に育ててもらったこと、離れて生活していた姉と同じ夢を追って、いつかは働いて貯めた金でアメリカ留学したいことも、洗いざらい話した。
 担任に唯一隠し通したのは16のときから『ラウンド・ミッドナイト』で働いて下宿もしていることだった。

 悠里たちにそのことを語ると、彼女たちは一様に嘆息をもらした。

「ひとりで暮して、バイトもして、アメリカ留学目指してたんや……かっこええなあ。私には想像もつかんことやわ」

 そう言ったのは晴乃だった。彼女は御影の老舗酒蔵の長女で、弟はいるらしいが家を継ぐ可能性もある。もしも今付き合っている友人の篠原と結婚でもすれば、彼は酒蔵も継がなければいけないかもしれない。何気なく彼とそんな話をしたら「そんな先のことなんか、よう考えんわ」と言われてしまった。けれど晴乃にはその覚悟があるような気がして、それを聞いてみたい気もしていた。

 ふと顔を上げると、ステージ上で信洋が手招きをしていた。湊人はあわてて立ち上がる。

「その話、またあとでな。せっかくだし今夜は楽しんでって」

 そう言ってステージにむかうと、宮浦が「かーっこいいー」とひやかしてきた。手を叩く彼女たちに便乗して、指笛まで吹いている。
 悪い気分じゃない――そう思いながら、湊人は白いグランドピアノに手をかけた。

              ***

 本番が始まると、要は水を得た魚のように、『ブラックバード』の中を泳ぎ始めた。
 決められたコードや小節や、音楽をしばるものをすべて脱ぎ捨てて、歌声を響かせる。追随するギターは彼の体の一部のように、歌声をからめとって眩くきらめいている。客席から上がった歓声や、漏れ出したため息や、グラスの重なり合う音まで全てすくいあげて、彼だけの音楽を生み出す。植物のように生長し続ける音色が、湊人の全身をまきこんでさらに枝葉をのばす。

 初めて要の演奏を聞いた、あの時の『ファースト・ノート』――幼い頃から記憶の底に叩きこんできた父の曲は瞬く間に覆されて、初音と要だけの新しい音楽を生み出していた。
 その後もあの曲は固定した姿を見せず、変化を続けた。一度は要のアルバムに収録されたものの、きっと今ふたりが演奏すれば、また違った形を見せるのだろう。

 ようやく追いつけたと思った要が、自由自在に空中を浮遊している。けれど拒まれているわけではなく、湊人が手を伸ばせば、笑って引き上げてくれる。
 バイトと練習に明け暮れる日々の中で忘れていた、音楽本来の楽しさを、また要が思い出させてくれる――

 湊人は夢中になってピアノの鍵盤を叩いた。過去のしがらみも、未来への不安も全て取り払って、ただ今ここで要たちと演奏する喜びがあふれだしてくる。

 要のうしろで、信洋が黙々とドラムを叩いている。リハーサルの最中は若干頼りなさを感じていたが、そうではなくて自己主張をしないタイプのプレイヤーだったのだと、今になって気づく。
 観客の目がある本番ともなれば、誰だって気を引きたくなる。自分はこんなプレイヤーなんだ、こんなことだってできると、誇示したくなるのが当然だ。

 けれど信洋にはそういう欲が全くないらしい。ほんの少しあるドラムソロですら、曲の流れの一部だという叩き方でサラリとすませてしまう。まるで舞台のうしろをこっそり行き来する黒子のようだ、と湊人は思った。

 信洋の本領がどこにあるのか――それは要の姿を見ていれば一目瞭然だった。

 要があんなにも変幻自在なプレイをできるのは、信洋のサポートがあってこそだ。コードもリズムも不規則さを見せる要の演奏に、信洋はどこまでもついていく。まるで次に起こることを予測するように、小さなアウフタクトを入れてきたりもする。その気配を感じた要が嬉しそうにまた違うことを始める。それでも信洋は黙って、ただ要についていく。

 どうやら小雪のベースが奔走し続ける彼らの演奏を抑制しているらしく、音楽はちゃんと曲の形を持って、観客に届けられる。そのおかげで湊人は要の音色と融合することができる。彼らのサポートがあってこその自由なソロだと、観客の中に気づく者はいるのだろうかと思うと、身震いが起きてくる。

 最前列に座った悠里が、食い入るように要の演奏を見ている。ギター&ヴォーカルとしてバンド活動もしている彼女の心に、自分たちの音楽はどう届いているのだろう。リハーサルで聞いた、あの澄み渡るような歌声を混ぜれば、いったいどんな音が生まれるだろう――想像しただけでまた新たなフレーズが膨らんで、湊人は指を操る。

 あらかじめ用意してきたソロはやめてアドリブをしよう――そう思った瞬間、頭の中に大きな空白ができた。目の前に置いてある楽譜まで、真っ白になっている。
 何が起きたのか――湊人は理解できなかった。まだ演奏の真っ最中には違いなかった。

 震えようとする指をこらえながら、思いついたコードをいくつか鳴らしていく。要の視線を感じる、もうすぐ『ナイト・イン・チュニジア』のピアノソロが回ってくる――

 ソロコーラスに突入したが、頭の中は真っ白のままだった。コードさえわかればアドリブができるのに、視界もかすんでいる。ピアノとドラムだけになったことに、観客席がざわつきはじめる。

 『ラウンド・ミッドナイト』で生まれて初めてカルテットをやったあの夜――あの時も、突如コード進行が記憶から消滅してしまった。演奏後はとにかく悔しくて、目をつむっていても弾けるくらい練習してきたのに、またしてもこの恐怖が襲ってくる。

 学校の試験とは違う、音楽は止まれない、今自分が何をすべきなのか途方に暮れる間も小節を消化し続ける。観客の視線が突き刺さる、生ぬるい汗がこめかみを伝っていく。

 ふと気づくと、ベースのソロが始まっていた。ドラムも音量を絞ってハイハットを刻んでいる。小雪は小さな体でベースを包み込むようにして前かがみになり、徐々に高音へと移動していく。メロディを口ずさんでいるのか、微妙にくちびるが動いている。

 白く長い指が弦の上を行ったり来たりするのを、湊人は呆然と眺めた。要もギターから手を離して、少しうしろに引いている。観客の視線はベースにむけられる。スポットライトを浴びる小雪の長い髪がベースのリズムと共に揺れる。ベースのやわらかい音色が固くなった心を温めて、自然とコード進行が蘇ってくる。
 小雪が顔を上げる。初対面のときは優しげだった薄茶色の瞳に気力が充実し、湊人に新たなエネルギーを送ってくる。

 コーラスのラスト4小節にさしかかり、湊人は鍵盤の上に指をそろえる。もう震えはない。譜面もちゃんと見えている。何より先ほどよりも曲の世界がよく見える。小雪が目指しているその地点がくっきりと輪郭を持って迫ってくる。