LOVE FOOL・前編
混乱した国民とテセウスを納得させるには、アステリオス以外に居ないのだ。
同じく空になったカップを揺らしていた少年は見透かした風な、大人びた眼差しで笑う。
「そうだね、行こうか」
軽快な足音で床に降り立つと、角の生えた冠を直す。
くるりと短いマントを翻し、ユースティティアとヴィヴィアンの顔を交互に見やると、唇に人差し指を当てた。
「ティターニアには内緒で」
「居ても役に立たないからな」
酷い。そう苦笑するアステリオスに背を向け、腕を組むままヴィヴィアンは云い捨て先頭を切って屋敷を
後にする。
いつもより歩く速度が増しているのは気のせいか。
陽に反射し不機嫌に揺れる銀髪の後を追いかけ、軽鎧を纏った青年と王家の生き残りは
警戒気味に外界へ踏み出した。
街は静かであった。
朝食時だというのに人の姿は無い。
人の数と反比例し黒薔薇は蕾までもが全て開花し、いっそう甘く建築物に寄生した様に咲き誇る。
昨夜と同じ、沈鬱なムード。
―と思ったのは、郊外の館から出た数メートルの路上まで。
石像が水を吐き出す噴水が印象的な中央広場には大勢の人間が集まり、じっと一点を見つめていた。
それは遠目からでもはっきりと窺えるほど。
ヴィヴィアン達が牢屋から逃げる時には確かに在った。
円形のこの広間から理想的な構図でそびえ立つラモナ城が。
塔も、装飾された上階部分も、城壁も粉々に。
何か巨大な獣爪に丸ごと削り取られたかの様にごっそりと抉られ、崩れ果てていた。
真夜中に、何の物音も振動も無い外部からの攻撃はそれが大軍に襲われたのではないと物語る。
「…!」
息を呑み、足を竦ませるアステリオスは無意識にヴィヴィアンの手を握っていた。
掌を伝って感じる他人の震えに戸惑い、けれど振り払う事も出来ずに青ざめた横顔を盗み見る。
(アストライア?…じゃないな)
脳裏を過る焦げ付いた臭いも立ち昇る黒煙も無い。
しかし焔でも無いとすると敵はたった一度の攻撃魔法で城を大破させた事になる。
思い当たる術式は一つだけだがそれはそれで厄介だ。
「一体何が…テセウス!」
瞬時、ユースティティアは高い塔で過ごしていた友人を呼ぶ。
応えがある筈も無い名を叫びながら、凄惨に崩れた権威の光景を傍観する民を掻き分けた背中は
直ぐに呑まれて消えた。
野次馬の一番外側で置いて行かれた二人は慌てて人垣の間を追う。
身を屈め足許をするすると潜り抜けるアステリオスとは反対に、華奢な躰は真っ向からぶつかり、
大勢に揉まれながらも最前列を目指す。
朝に櫛を通したばかりの自慢の髪も、誰かの装飾ボタンに絡まり不機嫌さのゲージは徐々に潤う。
やはり一言文句を言わなければ気が済まない。
そう空気を深く吸い込むヴィヴィアンの、数分間耐えがたい屈辱から拓けた空間にようやく
投げ出された二人は突然手厚い拍手に迎えられた。
「王子、御無事で!!」
「魔術師様、よく王子を救い出してくれました」
耳を疑う言葉の後、今までとは掌を返す反応に思わず身を退く。
辺りを一周させると、街の住民は嬉しさに涙を溜めアステリオスとヴィヴィアンに頭を下げ、祈り出す。
「―…うん?えっ?」
褒められる事は幾多もあれ、拝まれるのは初めてだ。
新国王の兵士達とは違い、事前にこの危機を察し王子を城から遠ざけた優秀な魔術師と彼等の
中では擦り変えられている様だが過程が全く解らない。
が、どうやら自分が王子を救った事は認識したらしいと、順応した魔法使いは満更でもない表情で
自慢げに笑う。
黄色い声と称賛を浴び、気を良くしたヴィヴィアンが乱れた髪を梳きながら応えた。
「当然だな!」
(何もしていないが)
「皆、あの城は一体…?兄さまは何処に!?」
先に着いている筈のユースティティアが見当たらないと、最も見晴らしの良い高台で城を眺める男に問う。
左右に首を捻り見回していると彼は一画を指差した。
吊られてヴィヴィアンも示す先に顔を上げると、此方を睨む兵士と眼が合う。
瞬くと、警戒気味に槍を構えた相手の先端が宙を斬ると、背後に居た住人の一人が庇う様に
ナイフを突きつけ、ヴィヴィアンの腕を引く。
「魔術師様は危険ですのでこちらに」
「??」
彼等は崩れた城の様子を眺めに集まっている訳ではない。
どういう訳か城の者と敵対しているのだ。
一晩で変わった状況下にアステリオスの背中を摘むと、少年もまた首を振る。
「とにかく、兄に逢わないと」
きっとユースティティアも其処だろう。
今にも双方殺し合いをしかねない。
共に行くと言い出す民を説得し、アステリオスとヴィヴィアンは崩れた城壁を辿って庭園のあった荒地を進む。
彼等の居場所は直ぐに判った。
天井から床にかけて半分、斜めに削られた玉座の方向から聞き覚えのある声がしたからだ。
「急ごう!」
「俺は別の用が…!」
弾かれた様に駆け出す王子の後から、云われるまま続く。
時折、負傷した城の者とすれ違うが、アストライアは居なかった。
「本気で、云っているのか」
信じられない。
怒りとも悲しみとも表しきれない乾いた声が喉から漏れる。
本人のものか他者のものか判らない。変色し茶色く固まった血で半身を汚し、傍らに控える女から
離れると王は旧友に繰り返した。
「こんな国、潔く滅びれば良いんだ」
「テセウス、なんて事を!」
吐き捨てられた言葉にユースティティアは詰め寄る。
差し伸べられた手を振り払うテセウスは昨日見たよりも一層、青白い。
「俺は主人も従者も無い実力だけが物を言う世界で、自由に生きる。
こんな時代遅れの階級制度に縛られる必要はない、お前にだってやりたい事があるだろう」
「…!」
絶句。というのはこんな時に思うのだろうか。
今まで何の疑問も持った事は無かった。
王族は仕えるべき対象で、自分は生涯血族を護る盾。
その王族であるテセウスが、こんな本心を抱いていたとは。
何一つ気が付かず、周囲と同じ。
ただ王家を護る事しか頭に無かった。
ユースティティアはきつく唇を噛み、ゆっくりと応えた。
「テセウスとアステリオス王子を国王にし、この国を豊かにする事が務めであり、騎士たる私の望みだ」
「その考え方が擦り込まれて来た物だと何故解らない!いくら優しく、正しくとも強い力が
無ければ何も護れないんだ。時には悪と呼ばれる手段でも…!」
「兄さま、ユースティティア!父と母を殺したのはその女だ!」
最悪の一節を遮って、一速触発の間に滑り込む。
そして玉座の背もたれに肘を乗せるふてぶてしい態度の魔女に嫌悪の籠った面差しを向けた。
埋めた筈の弟を怪訝に眺めるテセウスに反して、ユースティティアは剣を抜く。
「アリアドネが?」
「驚いた、まさか本当に生き返ったとはね…」
しかし女は悪びれるどころか、兵士と住民の前に自ら進み薔薇のモチーフが刻まれた小銃を横に
倒す。王子の言葉にざわめく見物人をぐるりと見渡し、低い声音で嘯いた。
「そうとも、国王も王妃もアステリオス王子も、私が殺した。この『テセウス新王の命令』だ」
アリアドネ、緑薔薇の魔女が言い放つと、ひゅと息を呑む声がする。
発言の効果は絶大だ。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨