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LOVE FOOL・前編

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 マイクスタンドを軽々と片手で操り、発車前の安全確認をしながらヴィヴィアン気が付く恭しく
頭を垂れる。この列車の乗務員だろうか?
誰かに似ている面持ちの彼女はすい、と身を退き線路脇に立つ青年に道を譲る。

「御乗車なさいますか?お客様」
「え」

 思わず喉から漏れた声に車両の通路から此方を窺う魔女が微笑した。
嘲った微笑みに眉が上がる。あの女は俺が自分を追いかけてくると思っているのだ。

 招く様に差し出された掌を眺め決めかねていた瞳が女を真っ直ぐに捉える。
ヴィヴィアンは腕を組み、きっぱりと言い切った。

「必要無い、俺は旅人じゃないからな」
(これ以上思い通りになってたまるか!)

 どんな状況にあっても揺るがない、高慢さ故の「選択」が彼の武器。美徳。
乗務員の彼女は瞼を閉じ、歌を聞く様に指輪魔術師の選択に耳を傾けていたが、
再び双眸を開き微笑む。

「左様で御座いましたか、出過ぎた事を申し上げました。それでは…」

 また、とは言わない。
彼に出会う事はこれが最初で最後なのだ。

 走り出すブルートレインの風圧と汽笛を聞きながら、流れる藍の車体を見送る。
幻想的な光と速度の調和した一閃。
暗闇に小さく消える最後尾を見ていたが、やがてぐにゃりと世界が揺れた。
重力を無視した自身の魂が眠る肉体に戻る、幽体離脱。




 全身を覆っていた浮遊感からの覚醒に凝り固まる背筋を伸ばせば、四肢の末端が湿気た土を削ぐ。
開いたばかりの瞼の擦り、ヴィヴィアンは辺りを見渡した。
白く濁った視界は相変わらず息苦しく、自分が罠に嵌ったのだと鬱蒼とさせる。
 持ち主同様厭らしく、じらじわ生命を奪う毒素をどれだけの間吸い込んでいたのだろうか。
身を捩り落下の際に打ちすえた躰の痛みに眉を寄せた。
壁に手を伸ばすも出口までの高さはメーガナーダの言う通り、自力で脱出する事は困難。
そもそもよじ登るという選択肢が彼には無い。

―はらり。
 地中深くに落とされた一面の漆黒へ、薄い花弁に似た何かが見上げた頬に触れる。
と、同時に流れる焼けた匂いに鼻を手の甲で押さえ、ヴィヴィアンはゆるゆると泥壁伝いに腰を上げた。
指で拭えば紙吹雪は黒く、息を吹きかけると一瞬で灰塵と化す。
加えて室内灯どころでは無い眩しさと、熱気。
「灰?」
 独りごち、そこで彼はようやく穴の中に射し込む明度の不自然さを訝しむ。
まさかと息を呑んだ麗貌が驚きに大きく見開かれた。
天井を見上げ、唖然と口許を薄く開いたまま自慢の銀髪にこびりついた泥を梳く。
紫水晶に似た瞳に映る信じがたい光景。
穴底から窺い知るだけの丸く狭い視野からは、低く唸る深紅の業火が。一面に渦巻いていた。

「何だ?…何が…起きて、いるんだ?」

 吹き荒ぶ黒煙の中、酸素濃度の薄まった空気が喉を焼く。
状況が判った途端に息苦しく感じるのは彼の悪質か。
獲物を追い詰めるかの勢いで紅蓮は尚も視界の上を薙ぎ、軋みを上げている。
見ずとも部屋の惨状は明らかだ。

「こんな時に、火事?」

 まさかメーガナーダが家ごと焼き殺そうと火を放ったのだろうか?
其処まで恨まれていたとは心外だ。
穴に落とされたおかげで焼死は間逃れるものの、中毒と酸欠の二択はどちらも選べない。

 はあー…と長い溜息を吐き、己には全く非が無い確固たる自信と横柄さで彼は腕をしなやかに掲げた。踊り狂う焔を逆光に見つめる先には10の指輪。うち精霊の宿った宝石はあと8個。
三度目ともなれば発動は容易い、炎を消し此処から脱出可能な指輪に口付ければ良いのだ。

 仕方がない…。
さほど慌てるそぶりも見せず、ヴィヴィアンは左手の中指を飾る澄色の美しいアクアマリンへ唇を重ねた。

『…。』

 自らの魂を預けた想い人からのベーゼを受け、淡いブルーの宝石が穏やかに発光を始める。
ゆっくりと円形に広がる光は落穴の中を湖面色に映し、水底に居る様な錯覚さえ呼ぶ。

 閉じていた瞼をそろりと開き、顔を上げれば両腕ほどの大きな水の球体がくるくると回転しながら
姿を現す。次第に鮮明さを持ち、揺らめく水面は膝を抱える彼女の躰。
長いアクアブルーの髪。透き通るロングドレス。生命の源。水の守護神。


「完全なる青、焔の敵対者ハルワタート」

 自らを呼ぶ声に彼女は流れる様に身を起こしながら、此方ににこりと微笑みを向けた。

『指輪の力は一度きり』

 そう忠告したノーデンスの言葉がふいに蘇りヴィヴィアンヴァルツは息を深く吸い込む。
一時の翳りを浮かべた表情を直ぐに打ち消すと彼女に命じる。
頭上を指差し、たったの一言。

「あれ」
『承りましたわ、ヴィヴィアンヴァルツ』

 子供の様な不貞腐れた態度も愛らしい。
最初で最後の想い人。
ハルワタートは微笑を零しながら大きく舞い上がった。

++

「げほっ、かっ、は。…ハルワタート…他に手段は無かったのか…」


 跳躍と共に足許から噴き出す大量の地下水に押し流され、全身濡れ鼠と化したヴィヴィアンヴァルツが
 呑み込んだ水を吐きながら不平を漏らす。
服を着たまま濡れるのも、泥の次に不愉快だ。
髪を絞っては溜まる水面を見下ろし、この姿では外にも出られないと数時間ぶりに戻った地上で
舌を打つ。それから様相の変わった部屋を一周した。
質素な木製の家具を舐め尽くした業火はハルワタートに鎮圧され、隅々から煙を立ち昇らせている。
炎は水の勢力により一瞬で消えたが、先を見据える瞳は鋭い色を拭わない。
いつもなら発動と同時に消える精霊姫は警戒を強めたまま、尚もヴィヴィアンに寄り添う。

 透明な体躯の背に庇い、消火した煙の向こう側に立つ人影へ力を溜めた。
見えない水槽が彼の呼吸を塞ぐ。
 正方形に溜めた水は彼の頭部を浸し、頑なに燻る火種を封じ込めていた。


「アストライア?まさか…溺死させる気か!?」

 ハルワタートはヴィヴィアンヴァルツの命を最優先する、という事なのだろうか。
否、これまでの精霊達もその必要が無かっただけで同じく他人の命は顧みないのかもしれない。
考えた事も無かった。自分を救う為なら彼女達は平気で人を殺せるのだと。

 ヴィヴィアンは冷徹なアクアマリンを押しのけ、騎士に駆け寄った。
意識を呼び戻す為に名を叫び、息を止めた水の戒めの中から引き抜くと、反動で彼が手にかけていた「物体」が床に落ち、足を取られ躓く。
転倒し、上に圧し掛かったその「物」の姿に悲鳴を呑んだ。
「!?」

 ヴィヴィアンヴァルツの下敷きになったそれは。
全身を焼かれ、直視しかねる程に崩れた身を曝すメーガナーダの姿だった。
爛れた皮膚と服がどちらとも判別無く朽ちている。
人体の完全な焼却に要する焔は自然界の物ではないと一目瞭然。

 熱の伝わり方。時間。火の燃え方が倫理に反す。
腕に刺さった剣は呪われた騎士の鮮血を吸い、耐えきれず二つに折れていた。
焦点の薄れた双眸が此方を捉え、切り裂かれた肉の間から溢れた一粒の血が床を濡らすよりも早く火の粉に変わる。
新たな標的を視界に捕えると血染めの腕がヴィヴアンへと伸びた。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨