LOVE FOOL・前編
元から機敏とは言えない魔術師は屍に脚を取られ、避けられない。
成す術も無くぎゅ、と閉じた瞼の前で、水蒸気が上がった。
「…。」
身を呈した精霊がヴィヴィアンヴァルツとアストライアとの間で輪郭を崩す。
「ハル…ワタート…」
意思を持つ核熱に削がれ、精霊は強制的に返還された。
死にはしないと判っていても、その光景には目を覆う。
力を吸収する焔。
朝、カカベルの放つ炎を吸い込んだ時分は単に火を吸収するだけだと思っていたが…。
(受けたダメージを全て喰うって事か)
水をも呑み込み灼熱の炎は更に咆哮し、ヴィヴィアンヴァルツに牙を向く。
『もう二度と、屈するものか…!』
朦朧と薄く開く口から零れる怨嗟の声。それは彼の本心だろうか。
魔法。魔術師。
最愛なる妹を守りきれなかった、その力には。もう二度と退く訳にはいかないのだ。
ハルワタートの束縛から解放されたアストライアは手にしていた剣を抜く。
斬る相手は違っていても、魔術師であるには変わりがない。
「…感情が原動力…?」
じりじりと距離を詰める切っ先と焔を前に、ヴィヴィアンヴァルツは合点がいったと顔を上げる。
妹の命を奪った「魔法」は効かない。そういう事なら。
生死の判別がつかないメーガナーダから、ゆっくりと落とした腰を滑らす。
今動けば斬られるかも知れない。
指輪を撫でながら変わり果てたアストライアを、少しだけ。自身にも気がついてはいなかったが。
救いたいと思った。
「ヴぃヴぃたん〜!死ぬなら此処が良い〜」
「ひーーーっ!?」
緊迫した場に生温かい声が背筋を凍りつかせる。
一体どこから現れたのか。
ぬるりと伸ばされた腕に下半身から抱きつかれ声を上げた。
「お前っ!生きてたのか!?勝手に人の股下を死に場所にするなっ!汚らわしい!」
「いにゃんv」
蹴り飛ばされたインドラジットは悲鳴とも嬌声ともつかない悲鳴を上げる。
纏わりつく変質者を邪魔だとアストライアに投げつけ、ヴィヴィアンはもう一つの指輪を重ねた。
「これなら、どうだ!」
それはヘリオトロープ。
黒石に赤の紋が彼女の証。
人の不浄を一身に請け負う、大地と愛欲の女神。トラソルテオトル。
自己犠牲と献身の象徴。
彼女は悪しき念と罪をその指と口で吸い上げ、白肌に正体を暴く。
インドラジットを払いヴィヴィアンの心部目掛け、今にも突き刺さんとしていた剣を白い手が留めた。
『!?』
キスを共に二人を包んだ濃霧の中から、陶器の様に青白い裸体の女が現れた。
髪も肌も亡霊の様に白く、瞳は血の様に赤い。
妖艶な姿は誰が見ても、一瞬心を奪われる。
この女は何者か。
警戒を強め、殺気の膨れた騎士に掲げた剣が身を貫く事さえ厭わずに抱きしめた。
背中から突き出た剣から焔か失せる。
静かなる白銀に変わった剣からインクの様に黒い滲みが彼女の肌に吸い込まれた。
「な…っ?」
そう零す声音は元のアストライアだ。
失った意識が戻ると目の前に裸の女が自分を抱いている。
回された腕はしっかりと胸の中に入り込んでいた。
「良かったな、アスト。彼女に吸精される名誉は二度と無いぞ」
「お前の仕業かっ!?」
顔色を赤と青に変貌させ狼狽する騎士を意地の悪い表情で見返し、トラソルテオトルの肌に視線を戻す。
怨念も焔も全て吸い取られ、やがて彼女自身が姿を変える。
黒い茨が全身を走り、咲いた薔薇が溶け合い異形を描いてはどろりと渦を描く姿の定まらない闇。
これが呪いの正体なのか?
それだけを満足げに魅せると、微笑をヴィヴィアンに投げもう一度唇を重ねたトラソルテオトルは掻再び霧の中にかき消えた。
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「何だったんだ…今のは」
嵐の過ぎ去った部屋には焼けた家具から水が滴り、溜りを作って床を叩いている。
解放され、その場にくたりと両膝を落としたアストライアは半ば放心気味に呟いた。
メーガナーダに刺された後の記憶は曖昧で、ただ目の前の惨状を受け入れる他無い。
自身から溢れ出た禍(ワザワイ)は浄化され、再び胸の奥へ捩じ伏せられたが右腕が不服を持って
ジワリと疼く。
「それはこっちの台詞だ、馬鹿騎士!
お前の厄介な呪いのおかげで指輪が残り6個になったじゃないか!コートも焼けてボロボロだし!
この借りは働いて返して貰うからな」
暴走の後、大抵の人間は恐怖や憎悪の対象へと変わった眼差しを浮かべる。
今回も例に漏れずそう成る結果を覚悟していたアストだったが、石の抜け落ちた指輪を突き出し
怒り心頭のヴィヴィアンを見た。
(…馬鹿騎士…全くだな)
どんな状況下においても自分が一番大事な、変わらない態度に緊張が解れ不謹慎にも顔が緩む。
笑われたと勘違いし更に憤慨する魔術師の手を引き立ち上がらせるとメーガナーダに視線を移した。
迂闊に触れれば崩れかねない彼の体躯は身じろぎすら浮ばない。
最悪の結末を胸に抱き、腕を伸ばすと水の滴るブラウンの髪から覗く双眸が怪訝に揺れた。
「…?」
一瞬何かを深く考え込む視線が横に動く。
背に担ぎ運ぼうと屈んだが、アストライアは徐に黒色に焦げた彼の頬に力を込めた。
乾いた音を立てて崩れる顔面にヴィヴィアンが叫ぶ。
「アスト!?何て事をっ」
「違う、断面をよく見てみろ」
鋭く言われ、恐る恐る覗き込むと自身も怪訝に眉を寄せ隣に屈む。
二人並んで見下ろすメーガナーダの屍、と思ったそれは冷静に眺めてみると中は空洞。
おそらくは等身大の、精巧な球体間接人形であった。
「人形?は?…人形!?いつから!?」
だとしたら本物のメーガナーダは何処に行ったというのだろうか?
何処かに潜んでいるのかと、ヴィヴィアンは辺りを見回す。
訊ねるもアスト自身も解らない。聞くなとばかりに首を振る。
「俺にもさっぱり…何時すり替わったのか」
呪い付きの腕を斬り落そうと刃を振り上げた時は確かに人であった筈だ。
焔に焼かれ、人形を身代わりに逃げたとも思えない。
そもそも、それなら此処まで自身によく似せた人形を用意している説明がつかない。
「あいつなら、何か知ってるかな」
考えあぐねても結論は出ないとヴィヴィアンはアストに振り払われ壁に叩きつけられたインドラジットを顎で指した。トラソルテオトルの浄化に当てられたのか、彼もまた意識が無い。
闇に溶け込む習性からか、比較的火傷の軽い青年を抱え、一先ずはと言葉を切る。
「彼は軽傷だが俺の責任でもある。医者に診せよう」
「俺はついて行かないからな、目を覚まされたら厄介だ」
あからさまに逃げ腰のヴィヴィアンにやれやれと溜息を洩らしながら横たわるインドラを背に担ぐ。
拍子に鮮やかな深紅の髪が零れた。
緑色のウイッグから、はらりと現れたのは別の人物。
それも二人が知る顔に益々解らないと脳裏を空白にお互いを見合わせた。
++
「『ジキル博士とハイド氏』という怪奇小説を御存じですか?」
容態でも無く、ましてメーガナーダの所在でもなく。
診療室から戻ったシジルは同じく手当てを受ける二人にまずそう切り出した。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨