LOVE FOOL・前編
いつになく弱気なヴィヴィアンは悟られまいと精一杯の態度でそっけなく返す。
腕を組み、寝台から降りると動かされた床に大きな穴が開いていた。
いつからあった物だろう。
キッチンで見た食糧庫の数倍は深く広い、縦穴に眼を見張る。
覗き込む底には白煙が立ち込め、後ろから同じ様に見下ろす顔を振り返ると香炉に入れたレッドスパイダーを焚いているのだと云った。
「酷いな…何の為に?」
覗き込むこちらにまで神経性の毒が回りそうだとヴィヴィアンは顔を顰める。
「貴方を突き落とす為です」
「へえー。……うん?っぅ、わ!?」
言うなり屈んだ背中を押され、無防備でいたヴィヴィアンヴァルツはあっけなく落下した。
最も身構えていた処で、どれほどの抵抗が出来たかは怪しいが少なくとも着地の仕方は違っていたかも知れない。
声を上げる間も無く頭から転がり落ちた先は暗闇と毒性の充満した空気。
大嫌いな湿気と土の匂いだ。
「メーガナーダ!何を…っ」
剥き出しの砂利に額を切り、痛む全身を擦りながら顔を上げた時には蓋が半分閉じられている。
穴の出口からは凍りついた微笑を貼りつけたメーガナーダが此方を楽しむ様に見下ろしていた。
「蓋に鍵は掛けません。その高さなら自力で登る事も不可能では無い」
穏やかな笑顔は逆光の影で黒く塗り潰される。
口許だけが歪曲し、動くその顔はこれまで見た事も無い彼の本心だった。
勝ち誇った者特有の声音に、ぐらりと視界が歪む。
これも毒の効果なのだろうか。
周到にも香炉は穴の底にではなく、手の届かない窪みに吊るされている。
大きさから言って、燃え尽きるまでの時間はそう長くはない…筈だ。
苦々しく頭上を睨みつけるヴィヴィアンに尚もメーガナーダはゆったりと言葉を紡ぐ。
「けれど、貴方にそれが出来ますか?
毒がまわり朦朧としてゆく中、爪の剥がれる痛みに耐え泥まみれになりながら
這い上がる苦行が、貴方の様に耐える事を知らない人間に出来るでしょうか?」
「ふざけるな、この暇人めっ!」
怒りを露わに叫ぶと、彼は初めて声を上げて嗤った。
自分自身にも向けられている様な自虐的な笑いに自然と握る拳に力が籠る。
「そうですね、私もそう思います。
けれどヴィヴィアンヴァルツ、私は貴方が魔力を失くして初めて気が付いたんです」
「貴方をとても、心の底から憎んでいたのだと」
出来る事なら誰も恨まず、穏やかに暮らしていたかった。
魔術や薬草の研究をして人の役に立ちたかった。
今更何も無かった様な顔で現れたりしなければー。
メーガナーダは一度言葉を切ると、憐れみを含んだ眼差しでヴィヴィアンを見た。
「待て!メーガナーダ!!」
どろりと濡れた感触に顔を拭うと、色は判らなくとも口に広がる味が自分の血だと示す。
いつもなら血が滲む程度の切傷ですら、痛いと騒ぐ処だが今は不思議と感じない。
「貴方の事が大好きなインドラジットなら、薬と食事くらいは投げてくれるでしょう」
土壁に両手を着き顔色を蒼白に落とす頭上に射し込んでいた光が徐々に細く、闇を広げる。
ぴたりと床板を閉じられ、視界が閉ざされるとメーガナーダの姿も消えた。
地下の寒さに腕を回せば上着を脱いでいたと気が付く。
肌に貼りついた濡れた衣服を抱え、その場に蹲った。
加えて薄い空気が眠気を誘う。
「あいつ…此処から出たらギタギタに、して…や…」
指輪を翳そうと持ちあがった手はくたりと泥の中に沈み。
その言葉を最後にヴィヴィアンヴァルツは真の暗闇に包まれた。
++
―遅い。
それほど気の短い方ではないが、アストライアは目前を横切った通行人が再び買物袋を手に帰る姿を
眺め深い溜息を吐いた。
見上げれば、心なしか日も傾いてきた様に思う。
中心街と違いこの住区域の人々はとても他人に関心があるらしく、見慣れない騎士に露骨なまでの
訝しい視線を注ぐ。最も近隣の屋敷にうろつく男がいたなら、自分も同じ態度を取るだろうが。
極力、人目につく事は避けたい。
「仕方がない、中で待たせて貰うか…」
偶然にもコートを持たされたのは幸いだった。
アストがヴィヴィアンの知り合いだという証拠になる。
刻々と長く影を伸ばす地面に視線を下ろし、アストは荷物とコートを抱え深紅の庭へ足を踏み入れた。
家主の管理が良いであろう花壇を通り越し平に削られた石畳の上を歩く。
正面玄関の扉は白と青の清潔感ある配色で、自分の様な旅の騎士とは無縁なのだと示す。
アストライアは極力、脅かすまいとした態度でヴィヴィアンの消えたドアを叩いた。
力を抜いて軽く二回。
物音ひとつ聞こえてこない邸内にノックの音だけが響く。
明るい時分からカーテンの締め切られた窓の隙間を覗き込むと、ドアの影から青年が顔を出した。
満開に咲く深紅の花に似た髪色に、彼がメーガナーダなのだろうとアストは小さく頭を下げる。
「先程ヴィヴィアンヴァルツが此方に窺ったと思うのですが」
「ヴィヴィアンヴァルツ、ですか?…彼なら何か急いでいた様子で随分前に帰られましたが」
「帰った?コートも着ずに?」
ぱちぱちと薄い瞳を瞬き、応えた台詞に語尾が半オクターブ上がる。
此処で待っていろと言いながら、実際は戻る気など無かったと云う事か。
思考が追い付かないアストにメーガナーダは同情する様、微笑む。
「そういう人なんですよ、ヴィヴィアンヴァルツは」
「振り回されますね、お互いに」
苦笑し、右手を差し出す。
軽装の左手では無く、わざわざ鎧を纏った方で握手を求める騎士に、メーガナーダは微かに表情を
曇らせたが問い詰めはしなかった。
躊躇し、恐る恐る掌を乗せるとアストは彼の手を握り、ふいに声音を落とす。
「私はこの手の呪いを解く為、イエソドに来ました」
「…?」
他愛無い挨拶を交わしていた青年の双眸に暗い影が浮かぶ。
じわりと熱を帯びる右掌を見下ろしアストライアは続けた。
「けれどもしも、此処の知識を得て制御出来るのなら解かなくてもいいとさえ思う時もある」
何を言っているのだろうか?
鋼鉄の重いガントレット越しに体温は感じない筈。
なのに、この上昇してゆく体感温度はどういう訳だ。
メーガナーダは云い知れぬ恐怖に自身の手を引き抜いた。
「!?離し…っ!」
汗の浮く掌を庇う様に身を退くが、しがない魔術学者の自分と訓練を重ねた騎士とでは足の運びが違う。背後でドアを閉め、後退する家主の腕を捻るのとは、ほぼ同時。
アストライアは自身より少し背の高い、けれど細身な身体を抱き、空いた一方で剣を抜いた。
「何があっての凶行かは知らないが、今だけは返して貰う。ヴィヴィアンヴァルツは何処だ?」
斬るつもりは毛頭無く、少しの脅しと会話を円滑に進める為だ。
そしてアストの読み通り、刀剣に免疫の無いメーガナーダはそれだけで喉を鳴らした。
「どういう訳か、この右手の炎は人間の「負」を糧にして燃えるらしい。嘘を吐けば火傷どころじゃ
済まないかもしれない」
「…ヴィヴィアンヴァルツ、は」
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨