LOVE FOOL・前編
そう。
彼が訊ねる呪われし凶悪な魔方陣は、右掌に。
燃え上がる炎の中、妹の躰から引き剥がした際に着いた火傷の痕であったのだ。
―本当の目的は「何者」がこの術を妹に使ったのかを知りたい。
自身の解呪はそのついで、だ。
「じゃあ、行くぞ」
思考を遮り、冷めきった紅茶を飲み干したヴィヴィアンヴァルツはすっくと席を立つ。
まるで着いてくるのが当然とでもいう風な口調で騎士を手招く姿に戸惑い、カカベルを
振り返ると彼女も、顎を反らして早く行け、と促す。
「どこに?」
足早に店を出る細身の体躯を追いかけ、愚問だとは思うが聞かずにはいられない。
がしゃがしゃと荷と甲冑とを打ち鳴らし、おおよそ洗練されているとは言えない足音に真紅の
コートを翻した。
振り返るヴィヴィアンの表情は元の高慢な面貌に戻っている。彼は銀色に煌めく髪を払った。
「俺は今最高に忙しい。
話の続きは歩きながら聞いてやる、そして用件が済んだら実物を見せて貰う」
円形は召喚に使われる事が殆どだが、掌サイズの物は稀だ。
確実に、一つ一つの可能性を消してゆかなければ、正解には辿り着けないだろう。
「お前のヘタクソな絵じゃ知っているものも判らん」
唇を結び、踵を打つ。決して口には出さないが、ヴィヴィアンも初めて見る形状であったのだ。
口調も荒く、何処かへ足早に向かう気難しい魔術師の隣に並び辺りを見回せば景色は一転してゆく。
美しく舗装された繁華街から質素な住宅地へ。
イエソドは学院の様な街だと思っていたが、こんな見慣れた地区もあるのかとすれ違う
住民に軽く頭を下げる。
書殿の人々とは違い、ぎこちなくも礼を返してくる通行人に驚き、思い出した様に頭を上げた。
「俺はアストライア=バルドー。済まない、名乗るのが遅れてしまったな」
さらさらと目の前で揺らめく美しい髪と横顔。
会話をする限りでは、ルージュの云う通り難のある人格の様だが、最も有益な応えをもたらした
最高の魔術師。
騎士アストライアが遅ればせながら、と素肌の左手を差し出す。
「ふーん、長くて言いにくい名前だな!お前なんかアストで十分だろ」
握手を求める彼の手にヴィヴィアンは掌を重ねず、一瞥を向けると自らの脱いだコートを乗せた。
(どっちが!)
外衣掛けに果てた友好の証を引き戻し、心で毒付く。
肌触りのよい光沢の上着を渋々抱え、アストが立ち止まったヴィヴィアンの肩越しから見える光景に
淡いシナモンの瞳を見開いた。
清潔そうな白とブルーの2色をくっきりと別つ一軒の屋敷。
その周囲を焼き尽くすかの様に植えられた真紅の華の群生が、一瞬だけ。
ヴィヴィアンヴァルツ捕えようと伸ばされた人の手に思えたのだ。
++
「お前は来るな。連れだと思われたくない」
「…。」
付き従う様ヴィヴィアンの後ろを歩いていたアストライアだったが、ふいに屋敷の門前で止められ言葉を呑む。
素直に一歩後ろに下がると、今度はその表情の消えた眼差しが気に入らないと魔術師は口を尖らせた。反論すればその倍は言い返すだろうに。
子供じみた態度に深い溜息を吐き、顔を背ければ今度はヴィヴィアンがゆるりと回り込む。
「何だその目は、反抗的だな」
「この顔は生まれつきだ。それより忙しいのだろう?早く用件を済ませて来い」
こちらを覗き込む碧眼は光の加減では紫のも見える。
確かに美しい色だ、と咳払いで誤魔化すアストライアに益々眉根が険しく寄った。
「云われなくたって判ってる!」
日常生活において、いかなる者にも邪険に扱われた事が無いヴィヴィアンヴァルツは声を上げ、殊更憤慨す。喧嘩腰の台詞を軽く受け流し、追い立てる手ぶりで払うとくるりと背を向く。
判りやすいと云えば判りやすい。
裏表がある考えの読めない人間よりは扱いやすいのだろうが。
彼と付き合うのなら相当な広い心と忍耐力が必要となるだろう。
最も一時だけの自身には関わりのない事だが。
苛々とした足取りで門を抜ける後ろ姿と、赤い花弁が一様風に靡く光景に目を細め、アストライアは雑念と
思い、庭を仕切る柵に頬つえを付いた。
(あいつ、いちいち勘に障る奴だな!)
怒りにまかせて歩調を速め、ヴィヴィアンヴァルツはドアを叩こうと曲げた白い指を奮う。
けれど勢いの良いノックは内から開けられた扉に空振り、微笑むメーガナーダの顔中で留まった。
「痛い」
自分の指が。
「…。お待ちしておりました。ヴィヴィアンヴァルツ」
理不尽な言動にも慣れたものだと主は鼻を押さえ健気に微笑む。
指輪が凶器に変わった時の痛みと、自身の微々たる痛みとでは訴える側が逆だがそんな事を
気にする様なヴィヴィアンでは無かった。
「どうぞ」と招かれた手を平然とすり抜け、相変わらずの質素な屋敷内を進む。
途中、部屋の薄暗さに違和感を覚え周囲を見回すと、窓と云う窓には遮光性のあるカーテンが重たく吊り下がっていた。
外の陽射しはまだ正午前。
昨日来た時もこれほど暗かったのだろうか?
淡い灰色の影が部屋の奥行を曖昧にぼかし、遠近感が掴めない。
その反面はっきりと示された、蝋燭の灯る一室が不気味に口を開けていた。
「メーガナーダ」
「はい?」
しかし注意がそれた。
「変わった香りだ」
聞きたい事は別の言葉であったのだが。
ヴィヴィアンは部屋の奥から甘く流れてくる紅茶の湯気に首を向ける。
柑橘系ともハーブとも違うが初めて嗅ぐ匂いでも無い。
どこかで嗅いだ記憶があるのだが思い出せないと余計気になるのだ。
「ええ、丁度淹れたばかりなんですよ、お飲みになりますか?」
この時ばかり素直に首を振るヴィヴィアンヴァルツに笑むと、メーガナーダは燭台を手元に置きカップとソーサーを並べた。
催眠術を施す為の部屋は昨日のまま。
病室の様に閑散とした硬い寝台に腰を下ろし、湯気が立つカップを受け取り少しだけと口を付ける。
「美味い」
真っ白い陶器に注がれた液体はヴィヴィアンがこれまで飲んだどの紅茶よりも赤く、甘い。
思わず呟くとメーガナーダも自身のカップを傾け、満面の笑顔を見せた。
「ええ、私が摘んで乾燥させて作ったものです。庭に沢山咲いていますからね」
「ぶっ、は!」
彼が涼し気に答えると魔術師は盛大に噴き出した。
「お前…っ!自分で猛毒だって言ってただろ!!」
「毒は水溶性なので水に浸せば無害なんです。ウイルスや細菌に強く、調合次第では感染症の薬にもなるんですよ」
大体私も今、同じ物を飲んでいるじゃありませんか。
ゲホゲホと咽ながらカップをテーブルに叩きつける麗人を可笑しそうに眺め、メーガナーダは徐に寝台を動かした。
「そ…そうなのか」
「毒性が出るのは焚いた時、空気に混じると頭痛、眩暈。視力障害等を引き起こし死に至る」
彼の喋り口はいつもと変わらない。
こんな物騒な話を交わす間柄では無かったが、穏やかな口調がとても冷酷に感じる。
気のせいか…。
部屋の照明のせいかもしれない。
自分が不安だから、そう感じるだけなのだ。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨