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LOVE FOOL・前編

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頭上から聞こえる規則的なメトロノームがヴィヴィアンの意識を昨日の夜へ運んでゆく。
ノーデンスとの会話。
飛行船での出来事、死体を見たのは始めてだった。

 初めて指輪を使った瞬間。
それから…。


 一定の間隔で刻まれる音を数えながら、ヴィヴィアンヴァルツは導かれ精神世界の深層部に落ちていった。
「あの夜、記憶の途切れる少し前まで遡って行きましょう。
目を開けて下さい、ヴィヴィアンヴァルツ。貴方は今、何処に居ますか?」

「…。」
 メーガナーダの声に問われ瞼を開けるとヴィヴィアンは円卓に着いていた。
正確には円卓に座る自分自身の後ろに立っていた。
 頭上には此方を見下ろす月光。
低く大きな橙色の満月が水面に映り、揺らぐ光景をどこか妖艶に思ったのを覚えている。
確かにここはあの日の夜だとヴィヴィアンは辺りをぐるりと見回した。

 幾つもの孤島から成る美しい南国、楽園ヴェジニー。
屋外に設置された美しい店は日没の海を一望できる絶景の空間。
世界でも一流と称されるこの国のレストランを予約し、魔術士達は祝杯を上げていたのだった。
この時はまだ空間移動が出来たから。イエソドから何処へでも移動する事が出来たのだ。

「では、旧世界から帰還した偉大なる魔術師。精霊の心を射止め、持ち帰った無二の美貌。
我らが崇拝して止まない、愛すべき友人ヴィヴィアンヴァルツに杯を!」
 高らかに声を上げ、すっくとひときわ背の高い男が芝居かかった口調でグラスを翳す。
焼けつく焔の様な赤い髪に黒のメッシュ。金色の瞳。
 漆黒のマントを羽織り、誇らしくヴィヴィアンを称える彼は取り巻きの一人、ラームジェルグだ。
 隣にはカカベルとニルギスが素早く席を取り、ブリジットが其処に次々と料理を運ぶ。
離れた二人掛けの席では、苛々とこちらを窺うアースの姿も見える。
 何故レストランでブリジットがギャルソンの真似事をさせられるのか納得がいかない、そんな処か。

 二人のこれから起こる未来を何も知らない表情にずきりと痛みが走った。
記憶のヴィヴィアンヴァルツは出来あがったばかりの10の指輪をひらひらと見せびらかし、羨望の中
満面の笑みを浮かべる。
 今起こっている身上など微塵も予期してはいないだろう。
(教えたい)
 もしも過去が変えられるのなら。
心底から湧き起こる衝動に動かされ、思わず自分自身の肩に手を掛けた。
しかし伸ばした手は空気を掻いて残像の様にすり抜ける。言葉も届く様子が無い。
「!?」
 愕然と見やる掌に自身の手を重ね、術師はヴィヴィアンを沈痛に諭す。
「此処は貴方の記憶の中です。幾ら声を上げても変えられません、見守りましょう」
「メーガナータ…」
 いつもなら叩き落とす筈の行為も素直に受け入れる。
勢いなく名を呟くばかりの弱気な態度に師はくしゃりと頭を撫でた。


「もう少し遡りますか」
「…ああ…」
 少しでも勇気づけようと思ったのか執拗に笑顔を向けてくる。
その微笑みが、とても、気持ちが悪い。

 嫌な気分だ。
ブリジットにもアースにも、ルージュでさえもそう感じた事はなかったが、何故かヴィヴィアンはこの時そう
思った。
 引かれた手が急に立ち止まり、メーガナーダは首を傾げ振り向く。
不安と焦りで肌を白くさせたヴィヴィアンはじっとその顔を凝視していた。
「やっぱり、今日はもう止めよう。もう起きる!」
 彼はまだ知らない。
このまま一緒に居て、失った全てを曝される事が急に恐ろしくなった。
掴まれた手を振り払い、後ろに下がる。
「急にどうして?まだ何も…」
 いくら宥めても一度嫌だと云いだしたヴィヴィアンは首を縦に振らない。

「ふふっ」
 まるでやり取りを見えているかのタイミングで、女の嘲笑が聞こえた。


「まさかとは思うが。お前、今俺を笑ったのか?」
 ぎくりと息を潜め声の方向に首を回すと、記憶の中のヴィヴィアンヴァルツが一人の女に話しかけていた。
こんな記憶は勿論無い。
 忘れ去られた記憶の断片。此処からが深層。
ヴィヴィアンとメーガナーダは云い合っていた言葉を呑み、二人の間に歩み寄った。

 彼女は灰緑の髪をして、瞳は今宵の月光色。
見慣れない色素配合の女性だった。

「ああ、ごめんよ。キミがあまりにも滑稽だから、つい…ね」
 女は一流レストランには不釣り合いな薄手のワンピース姿で、丈の短すぎる裾から素足が伸びる。
 顔立ちはマシな部類なのだろうが、何しろ装いがみすぼらしい。
娼婦にも見えるが連れの男はいない様だった。

「何、だと?」
 滑稽だと、あからさまな侮辱にヴィヴィアンの眉が吊り上がる。
背けていた顔を強引に向けさせ、指輪の飾られた硬い掌で彼女の柔肌を捻る。
本来なら、脅かす様な真似は好きではない。
自分は周りの人間とは違うのだから。
けれど、彼女に嘲笑されると苛立ちを抑える事が出来なかった。



 頬を掴まれながらも女は痛みを感じない口調で唇を歪曲させ、高慢な魔術師を嘲る。

「だって可笑しいだろう?仲良く食卓を囲んでいるのに、誰もキミの事を好きじゃない」
「な!?」
 恐らく今の自分は記憶の中と同じ表情をしているに違いない。
テーブルに着いてふざけ合う彼らは此方の状況が見えていないのか、談笑を続けている。
晩餐の主役である自分が居なくとも、ニルギスが何かを言えばラームジェルグが返し
カカベルが笑う。
ブリジットはアース引かれ同じテーブルで何かを話している。

「楽しそうだね。皆、キミの事を飾りとしか見て居ない。
キミを連れ歩く自分が一番好きなだけ、そうやって自慢げに見せびらかす指輪と同じだよ、キミは」

「そんな筈はない、俺は…」
 ぽつりと独り忘れ去られた感覚を否定しながら声を張るヴィヴィアンに、女が追い打ちを囁く。

「じゃあ、その御大層な能力を失っても、彼らは今と同じ様にキミに接してくれるのかな?」
「あ…当り前だっ!」

 瞬間。高らかに哄笑する声が闇空に溶けた。

「キミだってさ、実際良い気味だって思ってるんでしょ!?」

「っ!!」
 一部始終を目の当たりにしたメーガナーダの背筋が凍る。
記憶の中の女は、確かに自分を指差し、そう嗤ったのだ。

++

「…はっ!?」
 海面に身を映す満月が、女の笑い声に共鳴し得体の知れない波動を生む。
 地響きに似た振動に当てられ、目を瞑るとそこは見慣れたメーガナーダの施術室であった。
記憶の中で閉じた瞼がヴィヴィアンを現実に引き戻す。
 硬い寝台の上で首を捻ると薄暗かった室内はいつの間にか翳り、焚かれて薫香もとうに
燃え尽きていた。

 辺りを見まわすも閑散とした部屋の壁に時計は無く、日没までの感覚が掴めない。
混濁する頭でゆるゆると半身を起こし、ヴィヴィアンは意識を失う前枕元に立っていた筈の
メーガナーダが居ない事に視線を巡らす。
 寝台を降り床に足を着けると徐に締め切ったカーテンを開けた。
 窓から見えるリコリスの群れは夕暮れで血の赤に染まり、遠くの空には不釣り合いに月が白く光っている。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨