LOVE FOOL・前編
左小指に光る控えめな乳白色、ムーンストーンに首を倒す。
研磨された澄んだ輝きはそこに無い。
けれどどこか穏やかに、胸のざわめきを一蹴で解き伏せる光。
それが水面の様に揺らぎ、ブリジットは瞬いた。
「何が出てきても恨むなよっ!」
ヴィヴィアンは半ばヤケクソに誰にともなく叫ぶと石に唇を重ね、全てを喰らい呑み込む悪魔の懐に飛び込む。
思いもよらない人物の、効果の読めない反撃に燃え上がった真紅の瞳がアースからこちらに移った。
掴み上げていた肉塊を手放すと、既に人の形状を留めていない、獣の口から声が漏れる。
「何だベイビー?とうとう俺に嫁ぐ気になったのか?」
「んなもの、未来永劫お断りだ!」
詠唱も、魔方陣も無く。
たったひとつの口づけで、月の滴は周囲の光を吸収し、収縮し始める。
これで、ユグドラシルランクの魔法が発動出来たなら…。
祈る様にヴィヴィアンは指輪をいまや口だけと変わったバアルの眉間に押しつけた。
閃光。渦。
月光の憐憫さ。
ミルククラウンの様な煌めきが指輪から放たれ、弾けた滴は室内に反射し跳ね踊る。
温度の無い乳白色の小さな球体は、頭を抱え、身を低く落すブリジットの頬に当たって溶けた。
「冷た…これ何、ビビ?」
「さ…さあ…?」
雫の浸透した肌を擦りながら尋ねるが、本人にも正確な答えは解らない様でヴィヴィアンは曖昧に微笑む。
前回と同じ流れならここでバアルを倒すほどの高位精霊が出てくる筈なのだが、自在に飛び散る光の流水に眼を凝らすも、らしき人影は見当たらなかった。
「何だ?こんな光で俺を追い出せるとでも?」
(追い出すどころか、滅殺する勢いだったんだけどな…)
固い決意の籠った眼と、半ばどうにでもなれという声色の果敢な魔術師に只ならぬ反撃を予期していたが。
次第に目の慣れてきたバアルは哄笑し、一旦退こうと下ろしかけた拳を捕えた。
「!?は、離せっ!」
手首を捻られ、強張った華奢な体躯を易々と抱き上げる。
床から浮く爪先を暴れさせながらもがくが、手首と腰を捕捉された身では逃れきれない。
腕に乗る閉じた両腿に顔を埋め、下肢から這い上がってくる温かい息に肌が泡立つ。
それならまだ手で撫でられた方がマシというものだ。
「そう冷たい事言うなよ。早く一つになろうぜ、ベイビー?」
血と汗と石鹸の混ざった匂いを吸い込み、すっかり艶の無くしたヴィヴィアンの髪にべったりと囁く。
先程まで仲間の身に食い込んでいた牙が首の動脈に触れる度、不本意にも反応してしまう。
嫌悪と憤りで深層に芽生え始めた怯えを隠す気丈な顔を、バアルは愛おしげに眺めた。
「死」を恐れない人間はいない。
首から手首まで、血管をなぞって、肌を寄せれば鼓動で解る。
どうやって受け入れ、共に歩むかは人それぞれだが、きっとこの男、ヴィヴィアンヴァルツは
こと切れる最期まで服従したりはしないだろう。
なんて美味そうな甘い魂、その躰。
鋸状の小さな刃から覗く赤い舌でぞろりと頬の輪郭を舐め上げ、身震いのする顔からバアルはふと視線を外す。
「…が、その前に。目障りなお前をどうしてくれようか」
熱望していたヴィヴィアンを抱き、注意の反れた隙を縫って足許に伏す躰に手をかけていたブリジットの頭を大振りに蹴り飛ばした。
「あっ!」
「馬鹿ブリジット!逃げ…」
真紅に尖ったブーツの先端が涙で腫れた瞼目掛け、振り払われる。
ヴィヴィアンの制止も空しく、即座にかわせるほど機敏ではない青年は瀕死の友を全身で庇う様その場に蹲った。
「…。」
朦朧と闇に沈んでいたアースの視界に優しいシナモン色の長い髪が舞う。
いつも笑っていてと願うブリジットの顔はくしゃりと悲しく歪んでいた。
―自分のせいで。
守れないのなら、せめて。と震える背中に回した手は彼に握り返され、伝う肌の温もりに安らかな表情が浮かぶ。
けれどバアルの打った爪先は頭、髪の一本に至るまで、どちらにも傷を与える事は無かった。
「な…に!?」
襲う衝撃に固く瞼を閉じていたブリジットだったが、バアルの言葉に瞬き目を凝らした。
丸く開いた翠瞳の前を大きく蹴り入れた脚が膝下から宙に飛んでいるのだ。
躰から切り離されたそれは空気に触れ塵に変わるが、切断面からは鮮血を撒き散らす。
中身は空洞。
塵に変わる筈の悪魔の躰が命を宿す。
肉体ならば再生は無い、つまりは殺せるという事だ。
まるで人間そのものの変質に思わず床に取り落とされたヴィヴィアンでさえ、痛みに声を上げるよりも「これは…」と漏らした。
バラバラに砕かれた光の壁が、まるでパズルを組み立てる様に破片を積み上げ、再び構築されてゆく。それがバアルの脚を遮断したのか。
「お前か…っ!」
怒りの浮かんだ眼差しでぎろりと壁に叩きつけた小さな光を振り返る、が、精霊は折れた羽根を起こし、まだよろめいている。
―違う。
バアルは辺りを見回した。
同じ悪魔であるアスモデウスにそんな力は無い、ブリジットでも無い、一体誰が。
自問し、直ぐに見つける答に苦笑する。
そんなもの決まっているではないか。
「はははっ!ヴィヴィアンヴァルツ…!
ベイビー、やってくれるじゃないか!」
狂気を滲ませ、返り血に顔を汚すヴィヴィアンの胸座を掴むが、それすらも赦さないとばかり伸ばした腕をも断つ。
最初の一撃と同様、鋭く斬り落とされた傷口からはこれまで喰らってきた人々が流した
真っ赤な血が止め処も無く溢れていた。
明らかに意思を持ち、ヴィヴィアンを加護する為振われた刃にバアルの顔色がすうっ、と凍てつく。
「ち…っ!」
闇と光の境界で忽然と舞い上がる純白の羽根が精霊の放つ障壁を後押しする。
頑なな白はバアルの触れた漆黒にも染まらない。
何者にも身を委ねずに、全てを浄化し癒す。
アースを抱きかかえ、床に腰を落す最も無力だと思われていた青年の背から純白の翼が
風を斬り、悪しき存在を打ち払う為に羽ばたいた。
「え…えぇっ!?」
突如、背中に掛る重みにブリジットは場違いなほど怪訝な声を発す。
当然ながら、翼はブリジットから生えた訳ではない。
何かが乗っている感覚に、ゆっくりと視線を背後に向けると尾の長い純白の鳥が一羽、
戸惑う青年の肩を止まり木代わりに甲高く咆哮した。
「何これ!ビビ!?」
鳥にしては巨大なその生き物は、頭を高くもたげ、澄んだ碧眼でブリジットに圧し掛かる。
翼が腕に触れると、身を浸蝕していた漆黒の傷が剥がれ落ちた。
見たこともない聖獣と奇跡に、狼狽するばかりの青年に指輪の魔術師は思い出したと手を打つ。
「お前はカラドリウス…ってことは」
当然飼い主も傍に来ている。
ヴィヴィアンはこれまでに無いほど邪悪な笑みを貼り付けた。
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どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
視力を奪われた双眸の瞼越しからでも感じる強い陽射しに彼女は思わず掌を翳した。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨