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LOVE FOOL・前編

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半日を経過し、航路から消息を絶っている二つの飛行船に注ぐ光は天空を厚く覆う白雲を裂き、白銀のベールに似て淡く紺碧に滲む。

 一秒ごとに変わる雲の姿。陽と星の煌めき。真昼に浮かぶ幽玄の月。
 地を這う生き物の内、最も間近で見たいが為に私は船を駆るのだ。
意図しては造り出せない芸術。この空の許で死ぬなら本望。

「あれ…私…?」

 そこでルージュはようやく自身の目が「見えている」事に驚愕した。
「???」

 抉られていた頬に恐る恐る触れ、半身を弄ると体は元の形状に戻っている。
じっと目を凝らした先にある両掌も、いつもと変わらぬ自身の指だ。
爪に僅かの機械オイルが付いている様まで朝のまま、何も変わった部分は無い。
ただ襟元が大きく破れたシャツだけがこれまでの惨状を物語っていた。

―治っている。

 けれど治療も魔術も受けた痕跡は見当たらず、益々首を傾ける。
実はもう自分は死んでいて、都合の良い夢を見ているだけなのだろうか?
この奇跡を乗客の魔術師達に知らせるべきだろうか…とも。

「どうなってるの?…う、あっ!?」
 ルージュは独り狼狽しながら辺りを見回し、何処からかじっと自分を見つめる視線にうわずった声を発した。
 座席を振り返るも、狭い機内で人の隠れる死角は無い。
あり得ないと視線を辿った前方で大きく張り出した積乱雲が割れたフロントガラスを横切り
監視の黒鳥達を呑みこんでゆく。
眼差しは雲の中から注がれていた。
「今度は何!?」

『…。』
 思わず叫んだ彼女の問いを解く様に。
風に撫でられさらさらと形を変える白雲がさらさらと靡く美しい長髪に姿を変えた。
すう…と細い鼻筋、緩やかな顎先、微笑む口元までが雲の陰影によって繊細な表情を作り出しやがて、ゆっくりと優雅な動きで横顔を露わした積雲の女性が此方を見つめていたのだ。
 法衣の様なマントに帽子。

 肩には尾の長く美しい、鳥が一羽止まっている。
雲を介して現れた主とは違い、実体を持つ白鳥は碧眼を飛行船に向け雄々しく飛び立つ。

天に着くほどの彼女がしなやかに起こした腕を横に振るうと、白い翼を取り戻した鳩達が
歓喜の羽ばたきを蒼穹に浮かべた。

++

「カラドリウス…」
 ヴィヴィアンの口から零れた名にもう一度、ブリジットは自身の背にどっかりと居座る白鳥へ首を捻った。

 精霊は自分の専攻外であったが名前くらいは何冊かの文献で見た記憶がある。
枕元に現れ生死を予言し、病の原因である悪霊を吸い取ると云われ、人の不老長寿をも操作する聖獣だ。
神の化身であるとも称される存在を天才魔術師は指輪に仕込でいた。

 そういう事なのだろうか?

「この力、パナケイアだったか…」
 エメラルド同様、石の割れた空の指輪をまじまじと見つめ、汚れた顔を袖で拭きながら
ヴィヴィアンは立ち上がる。
「久しぶり」

 慣れた様子で片腕をぴんと伸ばすと、カラドリウスは甘えた鳴声を発し貧弱な背から離れた。
 ヴィヴィアンヴァルツを護る事が最優先事項。
主の大切な想い人。

 言語を理解しているかの様に、ヴィヴィアンの呼びかけに応えると顔を正面に向ける。
肌に残る爪痕や小さな擦り傷までも綺麗に癒すと、今度は嘴で懸命に身を起こす光の民を
摘み上げた。

 虫を啄ばむ仕草と変わらない。

 ヴィヴィアンとは打って変わった乱暴な扱いに精霊はきゅるきゅると威嚇を始め、ブリジットの三つ編みにしがみつく。
飛行船の外観、装甲が光を帯び、割れたガラスが鱗のような金色の滴で再構築されてゆく。
 闇が白に塗りかえられる。
負が正に押し流される。

黒衣のカーテンに遮られた機内に光が射し込み、カラドリウスの主、女神パナケイアの加護が傷ついた全てを慈しみ、癒す。
 白雲を媒体に姿を曝した彼女は、小さな窓から心を預けたヴィヴィアンの姿を熱く見た。
銀髪がキラキラと照り返し、彼の高潔さが胸を射抜く。
にんまりと邪に笑む顔でさえ恋する乙女には清廉な微笑に映るほど。
 愛は破壊的に強力だ。

「凄い、飛行船が女神の掌で運ばれている…」

 ブリジットは抱きかかえたアースを窓際に運び、唖然とした表情で外の光景を眺めた。
覗く小さな灯取りからでは全身が測り知れないが、大きいという事だけは十分に判る。
風を受けては姿を変え、穏やかな歩みで女神は二つの飛行船を抱え目的地に向かう。

 助かった…。不思議とそう断言出来る。

「もうすぐ帰れるよ、アース」

 ブリジットは緊張を解くと、その場に崩れアスモデウスの額に自身の額を重ねた。
________________________________________
「はっはっはー!形勢逆転。
ベルゼブブ、よくも散々この俺を弄んでくれたな!?」

「…う…、うぅっ!」

 ヴィヴィアンは腰に手を当て、びしりと人差し指を向けると高らかに笑う。
考えれば最も被害の薄いヴィヴィアンであるが、彼にはその常識が通用しない。
自分が受けた屈辱的な数々ばかりが脳天を沸かす。

 光の精霊と壁を間に挟み、自分は安全圏。加えて、強大な後ろ盾を背負い鉄壁の護り。
一方バアルは片脚片腕を失い、留まらない血液が床に水溜りを作り続けていた。

 これではどちらが悪党か解らない。

 じり、とヴィヴィアンが距離を詰めれば壁ごと前進する。
 触れればたちまち身を焦がす、浄化の詞に悪魔は脚を引き摺りゆっくりと後退し始めた。

 蘇生能力が断たれたままで、彼らと戦うほどバアルは「戦士」ではなかったのだ。

 長い間、行動を決めかね呻いていたが、やがて口端を吊り上げ鋭い歯を見せると
自慢の黒翼でマントの様に先の無い腕と脚に纏う。


「き…今日はこのくらいにしておいてやるよ!続きはまた今度、二人っきりの時にしようぜ」


「はァ!?何だとっ!?」

 引き際の速さにヴィヴィアンは裏返った声を張り上げた。
待て、と手を伸ばすがひらりと身を交わされる。

「アディオス、ベイビー!殺したいほど愛してるぜっ」

「ふっ…ざけるなっ!戻ってこい、卑怯者―!」

 腐蝕の黒で自らをも溶かしながら放つ投げキッスをまともに喰らい、眩暈のするヴィヴィアンは頭から床に大きく転倒した。

 部屋の敷居に躓いたのだ。

「…逃げた。
…こんな、散々好き勝手暴れて、逃げられたっ…!」
 バアルの腐敗から解き放たれた廊下の床は柔らかい絨毯が一面に敷かれている。
 まるで何事もなかったかの様に。

 多くの人命を喰らい、自分が危なくなった途端逃げだした!
 高級なそれをぎりぎりと毟りながら、ヴィヴィアンは怒り心頭で四肢をばたつかせた。


 悔しい。

 ぽつりと、空白になった胸に初めての感情が浮かぶ。

 誰かと戦うことなんて面倒臭い。
誰かの為に行動するなんて疲れるだけ。

 そう思っていた筈なのに。

 部屋の隅で倒れているアースとブリジットを想うほど、自身への悔しさとバアルへの怒りが胸を占めてゆく。
 心配そうに頭を擦り寄せるカラドリウスのふくよかな羽毛に慰められ、ヴィヴィアンはむくりと身を起こした。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨