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LOVE FOOL・前編

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魔法の使えない今は彼しか術者が居ないというのに、一体何をしているのか。
「時間が無いんじゃなかったのかー?」
 ドアの対面側から壁に凭れ、腕を組み誰にともなく問う。
 本人からの応えが返ってくるとは思っていないが、気を紛らわせていたいのだ。
不運にもバアルと遭遇してしまった人々の為が少々、大半は自身の危険故に。

(このまま逃げ出してしまおうか?)


 思えば今が絶好のチャンスだ、と薄情な企みが頭をもたげる。
彼にとって道徳心、善悪の概念は絶対的な保身の前に意味を成さない。

 自分さえ良ければそれで良い。

(…本当に?)

 くるりと踵を返し、ドアノブに手を掛ける脳裏に相反した意見が浮かぶ。
ヴィヴィアンは葛藤に悶え座り込むと頭を抱えた。
 コートの煽る微風で舞い上がる本の紙面を手で押さえ、嘆息す。
自分の思惑にではなく、何故自分が迷うのかが理解出来なかった。
 いつもならとうに見捨てている筈なのに。
 落ちつき無く苛々と部屋を往復する様は麗しき魔術師とは言い難い。
ヴィヴィアンが幾度目かのUターンを繰り返し扉口に背を向けた、その時。

 急劇に、それまで硬く閉ざされていたドアが激しく押し開かれ、倒れ込む思いがけない人物の姿に眉が寄る。

「ブリジット?」

 警戒気味に声をかけると、彼は腫れあがった自分の片足首を力無く動かした。

「ビビ…」

 床に両手を突きブリジットは視線を伏せたまま、か細く声を絞り出す。
 怪我の痛みは無い様だが、医学の浅いヴィヴィアンですらただの捻挫では無いと判った。
此処に辿り着くまで、何があったのだろう。
身なりも呼吸も酷く乱れ、乾いた視線で自身の手許を見つめる。

 彼の顔を見上げられない。

 ヴィヴィアンへの罪悪感と自身への嫌悪感に胸を満たし、押し潰されそうだった。

「ごめんなさい…謝って赦して貰える事じゃないけれど…」

 どんな非難を向けられても仕方がない、それだけの事をしたのだと。
 激しく罵られるに違いないと思っていたブリジットはぎゅ、と目を閉じる。

 打たれるかも知れない。

 そんな思いで身を縮こませる彼に反し、魔術師はいつもの人を見下す口調で、実に現実的な言葉を返した。

「お前の話はどうだって良いんだよ。さっさと動け、立ち位置はそこじゃない」

「…え?」

 向けられる言葉はやはり高慢で横柄であったが、そこには怒りも軽蔑も含まれていない。
ブリジットが思わず視線を上げ、改めて室内を見回すと自分の身体の下一面に多大な量の
文字の海が広がっていた。
 床に横たわり、肌に当たる紙とインクの匂いに身を起こし瞬く。
 目の前で腕を組み、此方に冷めた眼差しを注ぐヴィヴィアンは、部屋の中心を顎で示すとブリジットを強引に立ち上がらせた。

「これから「光の民」を召喚する」

 後ろから両肩をがっちりと支え、逃げ腰のブリジットを文字列の真ん中に押さえつける。

「ええ?…ビビ?…あの、まさかとは思うんだけど…」
 何かを始めようとするヴィヴィアンの顔を、不安に首を巡らせおずおずと問う。
戸惑いに泳がす緑色の瞳を見据え、彼はさらりと答えた。

「そのまさかだ。召喚はお前が行う」
「え、ええええっ!?無理だよ!無理!失敗するに決まってる!!」

 耳元できっぱりと断言され、気弱な青年は怪我も忘れて身を跳ね上がらす。
途端に身を捩って離れようとする体を羽交い締めにし、ヴィヴィアンは強引に定位置に引き戻した。
 いくら非力だとしても、今のブリジットを押さえつける力くらいは持っている。

「仕方がない。俺は今、全く術が使えないからな」
「で…でも、呪文も知らないし」
「俺が教える言葉を一句違わず言え。お前にそれ以上の期待はしていない」
「それに…僕、才能無いし!」
「この俺が。他の誰でも無い。このヴィヴィアンヴァルツが直々に教えてやろうと云うんだ。
成功しない筈が無い」

「そんな無茶苦茶な…」

 彼の絶対的な自信の前ではブリジットの弱気な意見など、ことごとく弾かれる。
首を振り、訴えるも彼の意思は撤回されそうになかった。

 ぐう、と言葉を閉ざす友人にヴィヴィアンは含みのある微笑みを作り、それから深く呼吸を整えエクソシストの高位魔法を囁く。

「あ…」
(ビビの声色が変わった…)

 いつも投げかけられる強気な声とは一転し、彼の言葉は染み入る様に心地よい。
希求し、崇拝する彼の術方をこんな間近で聞く事が出来るとは。
 今とは違った状況で、ビビに魔力が戻っていて。
いつもの他愛ない日常であったなら、喜んで聞き惚れるのに。

 こうして憧れの存在であるヴィヴィアンヴァルツに抱き竦められ、目にした事の無い召喚を共に行うのはブリジットにとって目眩がするほどのプレッシャーだった。

「いと気高き、聖明の支配者。防壁の砦、万能の盾。
輝かしき御身を示し、神曲にも勝る吹弾を我らに聞かせ給え」

「い…いと気高き…聖明の…。」

 詩を謳う様に紡ぐ澄んだ呪文に、内気で頼りない声が後を続く。
喉に籠った聞き難い詠唱をヴィヴィアンはじろりと睨みつけた。
「ブリジット、もっと滑らかに唱えられないのか?」
「そんな事言われても…」

 元より自信という物が欠如しているブリジットだ。
ヴィヴィアンの代わりに召喚を行う責任に息が詰まる。
 胸を叩く鼓動に呼吸を急かされ、上手く話せる筈も無い。

 身体を支えて貰わなければ、座り込んでいただろうブリジットを自信過剰な魔術師は尚も彼を急き立てた。

 早く召喚を行わせなければ、今までのアースの時間稼ぎが全てふいになるのだ。
ヴィヴィアンは震えの止まらない友人の手に無意識のまま自分の手を重ねていた。

「もう一度。いと気高き、聖明の支配者。防壁の砦、万能の…」
「う…うん」

 自分を励ましている風な、初めて見せる魔術師としての顔。
美しいヴィヴィアンの表情が凛と鋭く前方を見据える。

 身を呈して助けに来てくれたアース。
 ティターニア、イシュタム。ルージュ。


 ブリジットは最初にヴィヴィアンが見せた呼吸を真似て、深く空気を吸い込むと正面の扉をじっと見た。
「いと気高き、聖明の支配者。防壁の砦、万能の盾。
輝かしき御身を示し…」

 一音一句に切実な願いを込めて謳う。
小夜曲、夜想曲を連想させるヴィヴィアンの詠唱に対し、祈りを含んだブリジットの声は聖譚曲そのものだった。
 懸命に教えられた言葉を繰り返す彼の目の前をふらりと小さな光が横切った。
 密室である部屋のどこから入ってきたのだろうか。
それは天道虫ほどの大きさで、黄金色に輝く。
「ヴィヴィアン…これ」

 目を大きく凝らし、振り返るとヴィヴィアンは人差し指を自分の唇に当て先を促す。

「か…輝かしき御身を示し、神曲にも勝る吹弾を我らに聞かせ給え…」
(お願い!)

 ブリジットの心を読み、考えあぐねているかの様にその光は彷徨い、何かを物色ながら床に広げられた文字の上に光の粉を落してゆく。
 さらさらと落ちた砂は滴の様に紙面に弾かれ、数を増した。
「!」
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨