LOVE FOOL・前編
イシュタムの毒を含んだ物言いに思わずブリジットも声を荒げた。
「アースはそんな事しない、他の悪魔と一緒にしないで!」
「何をまんまと騙されてるんですか、悪魔なんて皆一緒に決まっているじゃないですか!」
「それは…!そうだけど、でも…アースは…」
自分よりも年下の少年に鋭く指摘され、否定しきれない青年は気弱な瞳を泳がせ、語尾は微かに消え入る。
確かに彼は嘘をついていた。しかし「絶対に違う」とはどこかで断言しきれない。
かといって全てを認める事も出来ない。
どっちも選べず、蹲ったままのブリジットに、それまで横で聞いていたルージュがとうとう一喝を吐いた。
「あー!もう、苛々する!
気になるんなら追いかけなさいよ、ブリジット!」
「る、るじーさん?」
満身創痍であるにも関わらず、彼女の声は逞しく力強い。
怒鳴られ、無関係のイシュタムでさえ身を竦める。
言葉を無くし数秒ブリジットは唇を開閉させたが、緑瞳を緩ます。
何かを決意した面持ちで俯くと、前を見据えた。
「はい…あの。必ず、戻ります。三人で」
彼の眼差しはまだ微かに潤んでいたが、涙はもう溜まってはいない。
宿るのは光。
アースを、ヴィヴィアンを救いたいと願う想いと、イシュタムと出会い、ルージュに叱咤される事が彼をようやく動かしたのだ。
最も、震えは相変わらず膝を這い、か弱いブリジットのままではあったが。
「ごゆっくり。急ぐ必要は無いよ、あんた達を待つ以外、私に出来る事は無いんだから」
使い魔と見習い。人間好きな悪魔と魔法の使えない天才魔術師。
彼女にはバアルという悪魔がどれほどの者であるか判らなかったが、何故か負ける気がしない。
これは長年、いろんな人種を乗せてきた操縦士の勘だ。
彼らは勝つ。
そして、戻ってきた時には自分が地上に運んでやらないと…。
ルージュは一人残された機内で、深くシートに身を横たえると愛船デルタフライヤーの計器を撫で、次第に重くなった瞼を閉じた。
蒸し暑い、蒸気の籠る一室だ。
機械に溢れた狭い空間は船底に反って長く連なる。
様々な形状の管が天井を這い、デルタフライヤー同様壁にはやはり計器が並んでいた。
そして金属パイプの表面に浮かぶ水滴に混じり、滴る黒い粒。
(ここにまで…)
イシュタムの先導に従い、後を続くブリジットは眉を潜め、胸の内で呟く。
気がかりなのはアースとヴィヴィアンだけではなく、此処に来るまでに通り過ぎてきたまだ息のある人々。
一刻も早く専門医、もしくはエクソシストの施術を要する…と頼りない知識ながらに思う。
最もこの船の中で、自分がそのエクソシストに一番近いのだが彼には自覚と自信が無かった。
「ご主人―!」
非常灯のみが暗く点灯する通路の奥、冷却水と並んで赤く記された消火栓に向かい仁王立ち、床に長い影を描く彼女に飛びつくイシュタムは高らかに跳ねる。
が、ティターニアの背中にぴたりと貼り付く一歩手前で小さな体躯は無慈悲に叩き落され、黒いマントを羽織り、特有のコスチュームを纏った魔女は後ろでしおらしく頭を下げるブリジットに瞬いた。
「遅い!…って、あら…?」
「よく無事でいたね、心配していたんだよ」
露出の高いドレスから覗く柔肌には一点の傷も無い。
ブリジットはほう、と安堵の溜息を落しながら彼女の傍に歩み寄った。
床に蹲るイシュタムも緊張を解き二人を見上げる。
「僕にも何か出来ないかと思って」
そうしてこれまでの経緯を。
何故だろう。
イエソドに居た時は殆ど会話らしい言葉を交わした記憶は無かったが、共通の危機的状況は絆を結ぶとでも云うのだろうか。
彼女の勝気な眼差しと態度が、どことなくヴィヴィアンを彷彿とさせていたせいかもしれない。
ブリジットは胸のわだかまりを解す様、アースについて話した。
彼が、悪魔だったという事実も。全て。
『悪魔はみんな同じ』
最初にイシュタムが見せた同じ反応を予期していたが、彼女は冷静に瞳を一度伏せると
一言「そう…」と頷いた。
「いいわ。待ちましょう、でも一時間が限度」
「アースを見つけたらすぐに警報機を鳴らすから」
ティターニアは深く問いただす事もしない。
もしかすると、彼女は見かけによらずとても慈愛の満ちた人物なのかも知れない…。
勿論、そんな事は云える筈もなかったが、小さく頷きブリジットは二人と制御室を後にした。
踵の薄い靴底は足音を絨毯に吸収させる。
静寂。音の無い世界。
床に散らばる瓦礫を転がす風だけが、時折ブリジットをびくりと脅かした。
恐怖心が無くなった訳では無い。
怖いのは今も同じだ。
壁と窓際に積み重なる人の体躯を避けて進めば、必然的に通路の真中を歩く事になる。
それは敵に最も見つかり易い、格好の標的場所だった。
(早く、見つけないと…)
ブリジットはぎゅっとフードの裾を握る。
瞳はもう乾いた。
ゆるゆると首を振り、胸に流れる三つ編みを後ろに梳くと決意の宿る眼差しで正面に挑む。
青年は徐々に歩調を速め先を急くが、それはやがて疾走へ変わった。
「アース!ビビ!何処に居るの!?」
開け放たれた部屋を覗き、声を上げて叫ぶ。
時間は刻々と迫るのだ、もう隠れては居られない。
「…うん?」
辺りを振り返りながら、懸命に友人の姿を探す視界の端に何かが起き上がった。
案内板を見た記憶に間違いがなければ、娯楽室の先は食堂。
続く長い通路の先は灯りが落ちていて、遠目からでは解らなかったがそれは此方に向かって歩いてくる。紛れもなく人の影だ。
乱れた黒髪が額に下がり、表情は見えなかったが若い男性。
酷く苦しそうなその人影は壁に手を着き、ずるりと脚を引き摺っていた。
「…あの…大丈夫ですか…?」
この船の生存者だろうか?
一瞬躊躇したが、床に蹲る男の身体を見回す限り腐蝕の後は見られない。
ブリジットは彼を極力怯えさせない様に優しく、ゆっくり声をかけた。
「誰か…いえ、背の高い若い、男性二人組を見ませんでしたか?」
「…ブリジット…」
身を低く落し、手を差し伸ばすと此方を見上げた視線が鋭く刺さる。
赤い瞳とそれ以上に鮮やかな長い爪。
「!」
ブリジットを捉え、全身から立ち上がる邪悪な意思は覚えがあった。
黒い鳩達がフロントガラス越しに見せた、あの気配と同じ。
それ以上―。
即時に後ずさるが、屈んでいた身を起こす男は青年の身長を越える。
大きく伸ばされた腕としなる手の甲で頬を打たれ、体は簡単に吹き飛んだ。
「うあっ!…!」
しかし背中から転がるブリジットを男は許さない。
衝撃に舞い上がる髪の束を掴むと今度は自分の方へ力任せに引き、もがく細身を吊り上げる。床から離された両脚が宙を掻いた。
「このクソビッチが!どの口でアスモデウスを誑かしたか言ってみろ!」
「お前が…バアル…?」
苦痛の漏れる唇からの問いに濡れた血を思わす眼が肯定だと笑う。
これが『悪魔』。忌まわしき惨状の根源。
やはりアースとは違う!
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨