LOVE FOOL・前編
焦燥だった。
はらはらと怯えを浮かべた顔色で辺りを窺いながら、物陰に隠れては脚を早める。
黒い、悪い物が人を襲う事は身をもって知っていたから真っ白いシーツを被り、時折目だけを覗かせた。
少女の様な面差に貼り付くプラチナブロンドの髪を拭って「それ」は一部屋ずつ、慎重に呼吸の絶えた躰を器用に避けて潜り込み、クローゼットや鞄の中を漁る。
地獄の様な現状で、物欲を満たそうというのだろうか。
否。そうではない。
彼 が危険を顧みず、無我夢中で探しているのは悪魔に対しての有効な武具。
十字架。もしくはロザリオ。
何でもいい。素材も、大きさも、どんな玩具だろうと構わない。
「どこに行けば見つかるですか〜!」
一つくらい誰かが身につけていても良さそうなのに。
と、生き物…イシュタムは目に付く可能性のある全ての荷物を片っ端からひっくり返し、一声鳴いた。
好都合な事に一度死んだ命は悪魔に感知されないらしい。
加えて身軽で小動物の様な体型が彼の行動を後押しする。
痛みはさほど怖くは無い。
四肢に残る生々しい縫合の傷跡は本当に恐ろしい物を知っていた。
それは別れ、独り残される事。
人間に命は一つしかないから。
イシュタムにとって、最も恐ろしい物は主との死別であった。
液体と液体の隙間を飛び越え、もしかしたら見つからないのかもしれない、と下僕の少年は絶望に打ちひしがれながら窓外に視線を注いだ。
流れる白い雲はこちらの惨状を全く介さず、優雅に通り過ぎてゆく。
本来なら主と二人でのんびりと空の旅を満喫しながら帰路につく筈だったのに。
食べ損ねた飛行船オリジナルのデザートメニューを思い浮かべ、腹を抱える。
外を羽ばたく、黒い鳩でさえ今なら食べられそうな気がした。
「うにゃ?」
物騒な思惑に気がついたのか、それとも他の事情からなのか。
突然黒鳥達が激しく羽ばたき、イシュタムは身を竦めながら再び機内へ首を戻しかけ、身を乗り出した。
移す視線の端に捉えた、小さな船影にごしごしと瞼を擦る少年の丸い瞳に輝きが灯る。
「あの船は…」
濁りの無い眼差しに映るのは船の右翼にぴたりと寄り添う、寂れた小さな貨物船。
見覚えのある飛行船は、彼と彼の主人を救ってくれたあの魔術師が乗り込んでいた。
出発前、主と散々笑い合ったのを覚えている。
じっと顔を顰め、目を凝らせば、運転席に人らしきものも見えた気がした。
「ヴィヴィアンヴァルツ…!」
主の憎き敵ではあるが、彼は彼女よりも遥かに有能な魔術師だ。
彼なら、今度も救ってくれるに違いない。
イシュタムは出口に向かうのももどかしく、彼の名を叫ぶと割れた窓から飛び出した。
縁に刺さっていたガラスの破片が薄手のシャツと皮膚を裂くが、彼は真っ直ぐに前だけを目指す。
今居る場所が上空だという事も忘れ、傾いた機体を器用に丸く滑り下りると、都合良く割れていたフロントガラスから操縦席に雪崩れ込む。
天井が反転し、目を回す少年が転がり落ちたのは、当然ながらデルタフライヤーの中だった。
「なん…っ!?」
「わあっ!?」
「ふに〜!」
悲鳴が三方向から上がる。
落ちた衝撃は想像と異なり、ふにゃりと柔らかい。
優しい腕と穏やかな吃驚に身を受け止められ、イシュタムは本能的に喉を鳴らした。
薄い胸元は主よりも貧相であったが、大丈夫?と頭を撫でる掌は温かく、甘い石鹸の香りがする。
思いがけない癒しに一瞬目的を忘れたイシュタムだったが、胡散臭げに身を起こす女性に睨まれ、益々彼に抱きついた。
「どこから?…まさか、こいつがバアル?」
船の乗客と同じく、焼け爛れた半身を庇いながら彼女が問うと青年は首を振る。
彼は自分の膝に座るイシュタムに顔を寄せて訊ねた。
「えっと…君は確かティターニアと一緒に居たよね?彼女は無事?」
涙で赤く濡れた瞳を緩ませ、青年、ブリジットは弱く笑う。
酷く疲れた様な表情から滲む悲しみに、イシュタムは耳を垂れ辺りをぐるりと眺めた。
いる筈の人物が見当たらない、と上目つかいに訊ねる。
「そうなのです。ご主人は今、飛行船の制御室にいて…ところで…ヴィヴィアンヴァルツさんは?」
彼を探して此処まで来たのに、何処へ…?と首を傾げ目を見張った。
この状況で居ない理由は一つしか無い。
まさか、と二人に非難の浮かんだ視線を注ぐとブリジットは顔を背け、低く呟く。
「…ビビは、船の中に」
救いを求められ、差し出せなかった自身の手を握りしめ、彼は肩を震わせた。
「大変…!一刻も早く十字架を持って行かないと!」
「十字架?」
船の中では見つけられなかった。
今も彼女は自分の帰りを待っていると云うのに…。
しょんぼりと背中を丸く縮め、落胆するイシュタムを膝に乗せたまま、ブリジットは彼の言葉を繰り返すと後部座席に投げ出された荷物の中から銀色の鎖を差し出した。
「十字架って、これでも良いかな?」
白銀の長い鎖に聖母の描かれた留め具。
その先にはずっしりと重く精錬されたクロスが下がっている。
装飾品、玩具としてでは有り余るほどの神々しさ。
これでも、と云うのはロザリオに無礼というものだろう。
「じゅ…十分ですっ!」
イシュタムは激しく首を縦に振り、両手で受け取る。
ルージュは感心した風に口元を曲げた。
「そんなの持ってたの?」
「ええ、専攻していた教会で御守りにと貰ったものだけど…アースが…静電気が起こるからって
凄く嫌がるので身に着けたりはしてなくて…」
自分の云った言葉にブリジットはふと自嘲む。
以前はそれを不思議に思っていたが、彼は悪魔なのだから拒絶反応が出るのは当然だろう。
(アース…)
彼は悪魔でも敵わないと云っていた。
加えて、ヴィヴィアンは魔術が使えない。
友人を二人も危険な目にあわせて、自分は一体何をしているのだろうか。
劣等生で役に立てない自分と、それでも協力したいと思う自分とが頭の中で渦を巻く。
「良かった…これで悪魔を一網打尽です!」
「おー凄い凄い、それで何をするの?」
喜び、狭い操縦席で舞い上がるイシュタムを軽く冷やかす声音でルジーは囃したてる。
こんな小さな少年でさえ、主の為に傷だらけになりながら此処まで来たではないか。
一人、表情を沈ませ考え込むブリジットの前で、一度ターンをすると彼は勝利を確信したとばかりに声を張った。
「ご主人はこれを貯水タンクに入れて聖水を作るです!
スプリンクラーを発動させて悪魔にぶっかけ、船全体を浄化するですー!」
「…ちょっと待って。
それは困る、それじゃアースまで浄化されてしまうよ」
ティターニアと彼の計画に弾かれ、顔を上げたブリジットは十字架を取り戻そうと身を起こす。
しかし、伸ばした手よりもイシュタムの方が機敏に身を退いた。
「嫌です。ご主人を救う方法はそれしかないのです。大体、浄化されるなら悪魔じゃないですか!
きっと仲間だったんですよ、今頃二人で更に酷い悪だくみを…」
飛行船の機体に上がり、後ずさると憎々しげに歯を剥く。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨