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LOVE FOOL・前編

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―あれは8歳の時だったのか?

 それは契約時、主従関係を確立させる為の切り札とも言える最大の呪文であり、
相手を酷く侮辱する罵倒の言葉でもある。
力無き者が呼べば、たちまち身体を引き裂かれる諸刃の剣。

『ベルゼブブ』

 幼いヴィヴィアンが呼び出した悪魔は、そんな名前であった。
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「おっと、その名で呼ぶのは二人きりの時だけにしてくれ。
誰が聞き耳立ててるかわからないだろ?」

 無謀とも言えるヴィヴィアンの態度に空気が張り詰めたのはほんの数秒間。
険悪に寄せた眉根を解き、ゆるりと首を振る。
 破顔しながらバアルはヴィヴィアンの指に自分の指先をぴたりと当てた。

「む、くっ!?」

 途端、ヴィヴィアンの喉元に赤い×印が描かれ、絞められる息苦しさに首を両手で抑えた。
口をもごもご動かすが声だけが出ない。

「ふ―!ふー!」

「あははは!可愛いなぁーもうっ」

 頬を赤く膨らませ、必死に声を上げようと足掻く姿にさえ、バアルはテーブルを叩いて歓喜する。

 残忍で冷酷。
外見と行動とは裏腹な陽気さが却ってこの悪魔の凶悪さを物語っていた。

「…バアル。約束通りヴィヴィアンヴァルツを連れてきた。こちらの要求も聞き入れては貰えないか?」

 呼吸に差し支えは無いとヴィヴィアンを落ち着かせ、それまでじっとバアルの動向を窺っていた
アースは本題を切り出し、グラスに口を着けた。

「要求?…そうだな。俺も幼馴染のお前にそんな大怪我を負わせて心が痛んでいた処…
どうして欲しい?」

 旧友の最もな申し出に、ふいに真顔に返ると組んだ指の上に尖った顎を乗せ頷く。

 二人が幼馴染だったとは初耳だ。

ヴィヴィアンは異議の溢れる顔でアースを睨みつけた。
彼はそんな視線には一向に顧みず、快いバアルの応えに深く胸を撫で下ろし、言葉を続けた。

「ブリジットと操縦士は見逃してくれ。彼らから手を引き、無事に目的地まで帰して欲しい」

「ふーん。随分入れ込んでるんだな。どうりで、なかなか契約を終わらせて帰って来ない訳だ。
色欲を司るアスモデウスが一体どうしたって云うんだ?
本気で、その人間と地上で人間だと偽って暮らすつもりだったのか?」

「まさか、そんな事は…」

 出来る筈がないと、力の抜けた表情で首を横に振る。
それでもどこか夢を見る様な、仄かに緩むアースの眼差しにバアルは鋭利な双眸を益々鋭く棲ませた。
 言葉を発せず、交わされる心中の探り合い。
が、険悪な睨み合いは、うっすらと笑みを浮かべた面で誤魔化され、二人はグラスを重ねる。
 半分ほど残っていたボトルは無論。
年代物の高級品を数本空にした頃、ようやくバアルは「仕方がないなー」と椅子に大きく凭れた。

「他でもないお前の頼みだ。いいだろう、あのボロい飛行船ごと解放する」

 アースは下手に言葉を選ぶが、彼らの間に信頼関係が無い事はヴィヴィアンからでも見て取れる。
けれどバアルは特に表情を変える事も無く、簡単に。
応えをじっと待つ幼馴染へとそうはっきり承諾した。

「それで良いな?」
 掌に乗せた芳醇な香りをグラスごと揺らし、じっと何かを考え込んでいたが強く念を押す台詞に首を横に振る。

「いや…言葉だけではなく、誓いが欲しい」

 落ちつき無く双方に視線を彷徨わす魔術師を間に挟み、宵闇色の瞳は真紅の眼光に動じず真っ直ぐに見返す。

 彼は落ち着いた低い声音で告げると、持っていたグラスをバアルに差し出した。

「誓い?」

 一体何をしようと云うのか。
バアルは唐突に向けられたグラスを怪訝に受け取る。
注いだ最後のワインは彼が一口飲んだだけで、まだ半分ほど残っていた。
意味が解らない、とグラスに向けていた戸惑いの眼差しを幼馴染へと戻す。

「嘘でないのなら、俺の杯を飲み干せ」

「お前、人間と一緒に居過ぎて妙な性癖付いたんじゃないだろうな?」

 苦い笑いを見せながらも、憮然としおらしくグラスを傾けるヴィヴィアンに向けて一度高く翳しバアルはアースの気配が残るワインを一息に流し込んだ。

 一体何をしようと云うのか?

 言葉の発せられない彼には見守る事しか出来ないが、その疑問は直ぐに見えて現れた。


 空にしたグラスをテーブルに置くバアルの指先が硬直し、爪の先から蝋の様に白く結晶化してゆくのだ。
最も吃驚に身を退くのはヴィヴィアンばかりではなくバアル本人も同様で、グラスは手から床に落ち、甲高い悲鳴を上げて砕け散った。
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「な…アス…!?」

 瞬く間にも、漆黒の悪魔は靴の先から髪の一本に至るまで石膏の様に塗り固まってゆく。
バアルが黒い液体をもって浸蝕するなら、アースのこの力は純白の砂の様だ。

「…やはり本心では無い様だな、バアル。
俺に嘘を吐くとそうなると…今まで言った事が無かったかな?」
「そいつは初耳…」

 一層冷ややかな眼差しと声音で、アース…悪魔、アスモデウスはゆっくりと席を立つ。

それから辺りを一周し、別のテーブルに乗っていた小さな調味料の瓶を持って再びヴィヴィアンの元に戻ると思いもよらない方法で声の呪縛を解いた。

「ぺっ!ぺっ!なにっ、すっ!?」

 唐突に頭から降り掛けられた白い粉。
サラダの様に食塩を浴びせられ、声の戻ったヴィヴィアンは途端に喚く。
それから、ぐらりと膝を床に落とすバアルを避けアースの陰に隠れた。

「違うんだ…アース!
これから地上に住む人間は三分の一ほども生き残らない。
そんな世界に放置するより、このまま船ごと地獄に連れて帰った方がお前らの為だと思って…!」

「お前に善意などあるものか」

 艶やかな黒髪は今や見る影も無い。
真紅の瞳も白濁し、彫刻の様に硬質な姿へと変貌してゆく。
純白の砂。それは聖書に記された塩の柱だった。
 これがアスモデウスの能力。
 バアルは動かなくなる舌をひと呼吸交えながら動かし、弁明を重ねるが偽る者に対しての罰だとでも云いたげな白き制裁は欠片も残さず、彼を封じ込めた。

 驚きに目を見開くばかりのヴィヴィアンを横切り、前に歩み出ると柱に変わったバアルの体を粉々に蹴り砕いた。
 幼馴染、同じ悪魔に対しあまりの迷いの無さに思わず此方が狼狽するほど。
自慢の銀髪に紛れこむ塩を払いながら、思わず問う。

「あいつ、死んだのか!?」

「まさか、あれくらいで死ぬなら俺がとっくに殺している。
蘇生までせいぜい1分か2分…そして怒り狂って追ってくる筈だ」

「よけいタチ悪くしてどうするんだよ!」

 調理場から此方の動向を窺っていた人々が、安堵の笑みを浮かべぱらぱらと二人に向かって手を伸ばす。
 生存者を集め、此処から出ない様にと指示するアースの後ろを歩いていたヴィヴィアンは、何かを思いつき、踵を返した。

「ヴァルツ?」

 バアルの蘇生はもう始まっている筈だ。

 今は近寄らず、身を護る事に徹した方が良い。
誰もがそう思っている中この男は何を…。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨