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LOVE FOOL・前編

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自身でも解しがたい怒りに困惑しながら額を拭う。

「バアルは操縦室にいた。まずそこから当たる」
 一呼吸おいて、再びヴィヴィアンに掛ける言葉はいつもの冷淡な彼の口調に戻っていた。
 悪魔でさえ勝てないと自分から言っておいて、正面から乗り込む気なのだろうか?

「今も居るとは限らないだろ、俺がバアルだったらとっくに移動してる。
この船の中で一番狭くて窮屈で、美しくない場所にいつまでも居るものか」

 思いつくまま言葉を並べると、アースの手が急に離される。
 勢いに負け転がるヴィヴィアンを、意表を突かれたとでも言いたげに。じっと見つめた。

「成程。それもそうだな、お前は稀に正しい事を言う」

「…一言余計だ」
 厭味でも無く、本心から言う態度が腹立たしい。
 口を尖らし、それでも認められた事に少し気を良くしたのか、勿体ぶった態度で立ち上がると「天才」魔術師は壁の案内図を指で軽くノックして見せる。

「俺ならこの船一番の豪華な客室を選ぶ。ベッドがあるし浴槽も、鏡もあるからな。
そこで、だ」
「…。」

 難問を課せられた生徒の様な眼差しでアースは次の言葉を待つ。
ヴィヴィアンの宝玉の様な眼差しが悪戯っぽく光った。
「バアルの一番強い欲求は何だっけ?」

「あいつの欲求は食…。
レストラン?ラウンジバーだな!?」

「そういう事」
 踵を返し独りでさくさくと倒れる人垣を避け、先を急ぐ青年の背中を追いながら肩を竦める。
(ま…確信はないけどさ)
 ひっそり呟くと、ヴィヴィアンは自身の指に煌めく9つの指輪を目の前に翳した。
 透明な美しい緑色の石はもうそこには無いけれど。
奇跡を信じるほど楽観的ではないけれど。
 試してみる価値はある。
最も、自分にはそれしか残されてはいないのだが。
 いくら悪魔とはいえ、高位魔法を額の真中に打ち込めば少しは時間稼ぎになるだろう。


 客室を越え、バルコニーを抜けた奥が目的の広間だった。
閉ざされた両開きの扉から優雅なピアノとヴァイオリンの演奏が聞こえ、食指をそそる芳ばしいスモークチップの煙が調理場から薫る。

「正解らしいな」
 銀色の裏戸を軽く押し、中を覗くアースがふわりと微笑む。
「俺を誰だと思っている」

 中では怯えた表情のコック達が忙しなく調理場にせめぎあい、若い一人がオーブンに入ったローストビーフの焼き加減を慎重に見ている。

 この船で唯一、彼らは生かされているのだ。
?
________________________________________
 案の定、レストランフロアに入ると中央の円テーブルに独りの男がウェイトレスに注がれたばかりの白ワインを傾けていた。
反面、彼以外の客は全てテーブルに伏しだらりと力なく身を床に向け、腐り落ちた傷から流れる黒い血液が足元にぱたぱたと滴る。

 真紅のコルセットとネクタイの組み合わせが印象深い。
 椅子に深く腰を下ろし、高く結った黒髪は長く床のすれすれまで垂れ下がり、ドレスをたくしあげた様な格好の男は自らが手を下した屍に囲まれ、満足気にグラスを揺らしながら口に含んだ。
 彼の唇に触れると、淡い琥珀を思わす熟された果実酒はどろりと濃紅に濁る。
瞳と同じ色。祝福された生命だけが持つ血の色だ。

「ひ…!」
 傍から見ても可哀相なほど、彼女は怯え、震えながら、それでも懸命にボトルを抱えていたが、一瞬で染まる奇怪な現象にとうとう手から瓶を滑らせた。

 落ちる光景が眼下にスローモーションの速度でゆっくりと映る。
にもかかわらず、手を伸ばす事が出来ない。
息を呑み、背筋を凍りつかせる彼女を真紅の瞳が射殺した。

「…ぁ、ああっ!バアル様、申し、訳…」
「…。」
 恐怖から思わず両手を着く。
歯の根を鳴らし床に蹲る、けれど。
床に甲高く破片を撒き散らすワインのボトルはことり、と何事も無かったかの様にテーブルの上に静かに乗せられた。

「?」

 力が抜け、膝が笑う座り込んだ彼女が顔を上げた先に二人の青年が立っていた。

 一人は悪魔と同じ顔色の白い無表情、だが彼女の落したワインを受け止めてくれた恩人。
 もう一人は麗しい容貌の銀髪の青年。
彼は床にぺたりと座りこみ立ち上がれずにいるウェイトレスに手を貸すと、背中を支え厨房に戻る優しく囁く。

「どなたか存じませんが…ありがとうございます!」
「ヴィヴィアンヴァルツだ。一生忘れるな」

 彼女は藍色のスカートを翻し、声を抑えながら同僚の元に去ってゆく。
自らの偽善行為に頷きながら、ヴィヴィアンは後ろ姿に軽く手を振って見せた

「おお、ベイビーっ!!アース!久しぶりだな、二人共!
初めて見たときはまだ8歳のガキンチョだったけど、こんな美人に成長するって俺には
解っていたんだぜ〜!」

 見るなり満面の笑顔で両手を広げ、男…悪魔バアル=ゼブルは歓喜しながら立ち上がった。
「ベイビー!?」

 慣れない呼び名にびくり、と肩を浮かせアースの背中に身を隠すが引き寄せられる力の方が強い。
真っ赤に塗られた爪を筋肉の薄い腕に喰い込ませ、痛みに歪むヴィヴィアンの顔などお構いなしに空いた一方で顔を強引に向けさせた。

(…8歳の時、か…)

 冷たい吐息を端整な鼻筋に浴びながら、悪魔に関しての記憶を懸命に探る。
浮かんだ一件一件を目の前の強大な悪魔と照らし合わせては打ち消し、身を硬く強張らせたまま瞼を閉じた。
 黒く感染した鳩、腐蝕し、崩れたルジーの顔や乗客達の亡骸が脳裏に蘇り、抱きすくめられたヴィヴィアンは短い息を呑むしかない。
けれどバアルは怯えを押し殺し強気な、それでもどこか血の気の引いた表情で顔を背ける麗人をやんわりと手離す。

「…?」
「まぁ、多少の誤解はゆっくりと解いて行こうか。時間なら、それこそ腐るほどあるんだからな」

 余裕の表情が勘に障るも、安堵する自分がいる。それが尚腹立たしいとヴィヴィアンは内心で罵声を吐いた。

 捕まえた魔術師を直ぐに殺すつもりは無いらしく、今更とも言える態度で暴食の悪魔は紳士的に二人を円卓に勧め、椅子を引く。
椅子に腰を下ろし、辺りを見回すとそこは恐るべき、惨劇な光景だった。
 本来ならこの場はウェイトレスが忙しなくテーブルの隙間を縫い、老若男女問わず全ての人々が談笑し、料理と酒に舌鼓を打っている頃だろう。
けれど彼らは既に息が無く、軽快な音楽がスピーカーから流れる中、食卓を囲むのは三人だけ。
 そのうち二人は悪魔、一人は生贄。
 アースはあらかじめ用意されていた空のグラスにワインを注ぐバアルを冷えた視線で一瞥し、毒々しいほど鮮やかな眼差しと歪曲する唇を眺め何も語らない。

 ガラスで描かれた円形の中で揺れる液体を眺めながら、ヴィヴィアンは唐突にパチリと指を鳴らし
すっかり忘却していた今と変わらぬ白い顔を思い出した。

「そうか、お前あの時の…ベルゼブブ!?」


 正面のバアル目掛け人差し指を突きつけ、悪魔が持つ「真実」の名を呼ぶ。
勢い良くテーブルに両手を突いて身を乗り出した。
 初めて悪魔を呼び出したヴィヴィアンは契約だけを行わせ、真実の名が書かれた目録を騙し取った事がある。

作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨