LOVE FOOL・前編
ブリジットの質問に質問を重ね、ルジーはアースとヴィヴィアンの間に視線を往復させた。
まともな思考をも殺がれるじわじわと侵される痛みが、彼に触れられた途端麻痺して、何も感じない。
甘い眠りにも似た不思議な感覚に困惑しながら、ゆるりと半身を起した。
しかし痛覚は絶っても、身体への負担までは消え失せない。
苦し気に言葉を吐く彼女を気遣い、反射的に手を伸ばすブリジットの手は即座に弾かれた。
「触るなって言われたでしょ?」
「…。」
叱られた青年は何も出来ない自分を責めるかの様にローブの裾を握って大人しく座席に蹲る。
固い椅子の上に両脚を乗せ、膝を抱える格好で口を閉ざす。
決して口には出さないが。強い女だ、とヴィヴィアンは思った。
もしも自分だったら…なんて無意味な仮定は考えないが一瞬にして視覚と聴覚の半分を失った胸中は計り知れない。
最も此処には鏡が無いから冷静でいられるのかもしれないが。
「俺は有名だから指名されても仕方がない。知り合いだとしたらそこの根暗くらいだろ」
はん、と失笑を投げ、顎で示すと3人の眼差しが一斉にアースを捉える。
(根暗…)
何かを知っていてそれでいて隠している風な、彼の物言いが胸中に波風を立てるのだろうか。
全ての窓が塞がれ、防音効果も手伝ってか艦内は仄暗い闇が漂う。
皮肉にも、唯一の光源が当たるのは運転席だけであった。
ちらりと、ヴィヴィアンに向けたアースの視線は誰にも気が付かれる事は無い。
彼は意を決した様に一度瞼を閉じ体の向きをこちらに正すと、ゆっくりと話し始めた。
「…正しくは悪魔バアル=ゼブル。
黒い液体は彼の堕ちた翼、腐敗と暴食を司る大罪の証。
同じ悪魔でさえ奴には敵わない、人になど到底勝ち目は無い…」
端的に言い終えると、アースは大きい溜息を吐く。
―悪魔。
彼が言い淀んだ言葉に誰もが応えを失くす。
「はっ!?お前ら、まさか俺を差し出すつもりじゃないだろうな?
自分さえ助かれば他人の命はどうなっても良いってのか!?」
しん…と緊迫した静寂の空気を裂いて、ヴィヴィアンの声が跳ね上がる。
「…。」
とたん、自分の安否ばかりを主張し始める身勝手さにアースは勿論、ルジーですら呆れた表情で口元を歪め、笑うしかない。
―それはお前だ。
それぞれに視線をヴィヴィアンから背け、三人は喉にまでせり上がる言葉を大人の良識で呑みこんだ。
「とにかく、今はこのまま逃げ切る方が得策、って事?」
長い沈黙の後を継ぐルジーの言葉に「ああ」と短く同意する。
冷酷だが、最善の策だと云う、彼は正しい。
「でもティターニアが乗っているのに…」
ブリジットが控えめな面持ちで呟く。
此処にはヴィヴィアンヴァルツが居るのに。
人はおろか悪魔でも敵わない存在、でもヴィヴィアンヴァルツなら、もしかしたらー。
僅かな希望を抱いて潤む眼差しを悲痛な顔色で受け止め、それでも彼は頑なに首を振る。
ブリジットの言い分は大概聞き入れるアースだったが、困った様に腕を組み藍眼を伏せた。
「…日没になれば鳥達の眼が効かない、空間を曲げてイエソドまで移動しよう。
もう面倒だとか疲れたなんて言わせない、いいな?ヴァルツ?」
監視の目を避け、後ろでジタバタと暴れる大人げない魔術師に身を寄せひっそりと耳打つ。
険しく眉間に縦皺を作るヴィヴィアンの涼やかな瞳孔が収縮した。
「……。嫌…だ」
「ビビ!?」
組んだ両手に額を乗せ、否とだけ応えると彼は再び躰ごと顔を正面から背ける。
不貞腐れたヴィヴィアンの態度に思わずブリジットがその腕を抑えた。
信じられない、と軽蔑の含んだ声で名前を呼ぶ。
この期に及んでまだそんな事を!
アースは片手でヴィヴィアンの襟首を掴み、乱暴に引き寄せた。
二人の険悪な空気に黒鳥がにわかに翼を羽ばたかせ、牽制するが語勢は弱まらない。
「バアルの狙いがお前一人だって事は解っているんだ。
船から放り出されたくなければもったいぶらずにさっさと飛べ!」
言葉を読まれぬ様、死角に首を傾けながら絞殺さんばかりに圧する。
いつになくぎらりと刃の籠る眼差しにヴィヴィアンが息を呑む。
視線を揺らし、微かに開いた端整な口元から苦悶に似た声が零れた。
「…い…」
「何?」
口惜し気に唇を結び、閊えながら小さく落す言葉を聞き返す。
荒い呼吸と共に発せられた、ヴィヴィアンの台詞に次はアースの方が眼を見張った。
「だからっ!イエソドから吹き飛ばされてから!…魔法がっ!使えないんだよ!
じゃなかったらこんな船には乗らないし!お前らなんかに迎えを頼むか!」
一度堰を切ってしまえば、後は半ばヤケクソな調子で彼は叫ぶ。
隠し通しておきたかった不名誉を自ら告白する事になったヴィヴィアンは、掴まれた手を振り払うと座席に深く沈んだ。
「嘘。…う…そ…」
ぐらりと眩暈を起こしたブリジットが眉間を抑え、背もたれに突っ伏す。
「この状況で最悪のカミンクアウトだな」
こうしている間にも浸蝕は体を這い上がる。
バアルの傷が厄介なのは、腐蝕が留らない事だった。
肌と火傷の模様を残していた腕は濡れた様に重く、指先も動かせない。
最も広範囲で受けた操縦士に至っては喉元にまで、魔手を伸ばす。
いずれ呼吸もままならなくなるだろう。
「なら迷う必要は無い。お前を向うの船に放り出す」
おもむろに助手席から背中を屈めて立ち上がり、アースはガラスに貼っていたパラシュートを一気に剥がした。
驚くブリジットの隣で必死に抵抗を試みるヴィヴィアンを力づくで抱えると、人の仕草で頷く一羽が飛び立つ。
バアルの元に帰ったのだろう。
「な…何っ!?」
「お前が犠牲になれば少なくとも三人は助かる、四人で心中するより良い案だと思うが?」
自嘲めかした笑みを浮かべ、白くヒビの入ったフロントガラスを易々と蹴破る。
自分ごと飛行船の外に出ようと云うのだ。
収まらないアースの勢いに押されたヴィヴィアンは悲鳴を上げ、ブリジットに救いを求める。
「…。」
これまで一度として見せた事がないアースの暴挙にただ言葉を失うブリジットは、狼狽するはかり。
そして、どこかで賛同している自分にも気が付いていた。
人の命を天秤に掛けているのだ。
(なんて嫌な奴だろう…でも…)
止めて、とは言えない。
ブリジットは伸ばされたヴィヴィアンの手を掴む事が出来なかった。
罪悪感に身を浸し、視線を反らす。
「…ブリジット…お前」
「ごめん…」
アースは細い躰のどこにそんな力があるのかという豪力で、片腕を薄い腰に回し甲板に踏み出した。
伸ばした手を収めヴィヴィアンは笑う様に顔を歪め、くったりと瞼を閉じる。
それはこれから起こる自分に対してなのか、友人に見捨てられたせいなのかは解らなかった。
大人しく従う魔術師を抱え、遮られた陽射しに顔を上げると崩れかかった客船が搭乗口を開いて停泊する。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨