LOVE FOOL・前編
後ろの方角に翠眼を細め、らしからぬ不穏な声を発す。
おろおろと視線を揺らす青年に向かって、足元からヴィヴィアンが問うた。
「どうした?」
「うーん…」
高い蒼穹が太陽を映し空と雲の切れ間から光明を注ぐ、その果てに。
巨大な黒い影が、ゆらりと動いたからだ。
雲の奥に留まっていたそれは、此方に気がつくと黒い塵を撒き散らせその姿を現す。
それは此方よりも数倍以上も大きい、飛行船だった。
漆黒に塗りかえられた機体には辛うじて白と金の装飾を施した跡が見える。
離陸時に投げられた真紅のテープがひらひら船底から踊っていた。
優雅を体現した空挺、街一番の巨大旅客船は操縦室を地面に落とし、下降しながらも迫りくる。
前からは得体のしれない怪物。
後ろからはその餌食となった船がデルタフライヤーの船壁を削り取る勢いで重なった。
距離を縮め、聞こえてくるのは大勢の乗客が助けを求める悲鳴。
飛行船の割れた窓から身を投げ出し、無謀にも此方に飛び移ろうとする人影にブリジットは眼を瞑り思わず叫ぶ。
「あれは…空港で隣に停泊してた船だと思う!向うも襲われてたんだ!」
「何だって!?」
ルジーは大きく声を上げ、ブリジットを振り返る。
それから彼女は正面を睨み、座席の壁に向かって拳を力任せに叩きつけた。
迂闊だった。
自分の船の事で気が回らなかったのだ。
進路が同じなのだから、当然後ろも襲われる。
「向うの船はこっちより大きいから、警告したらまだ間に合うかも…」
「そうか、そうだよね」
「だから始めから向うの船に乗っていれば良かったんだ」
三人が三様の想いで独り頷き、納得した風に視線を交わす。
同業者の接触に幾分、張り詰めた気持ちが和らいだのか気丈な操縦士は深く息を吐き、肩の力を抜いた。
壁に埋め込まれたたアルミ板の蓋をスライドさせると周波数を合わせる基盤が露わになる。
操縦席の右手に転がされていた通信の受話器を取り上げた。
汗で首に絡みつく金糸の髪を掻き上げ、相手の操縦室に無線を繋ぐ。
―けれど。
数字の書かれたキーをリズミカルに叩き、周波数を合わせるルジーをまじまじと眺め、
重い口を開くアースの言葉は彼らを再び怯えさせる物だった。
「もう手遅れだ。客船は大きい分窓も多い、既に全員助からない」
「何なの、それじゃまるで…」
ざらざらと受話器から流れる断続的なノイズをもどかしく耳に当て、相手の無線機が立ち上がるのを待ちながら可笑しくもないのに口元が緩む。
機内を強化した光の薄い機内に息の詰まる沈黙と、外界の不規則な物音が溶け合い
誰一人、彼の発した言葉の先を紡げずにいた。
恐ろしく邪悪なそのモノ。
後に続くのは痛み。見せつけられた苦しみが、死が、恐怖となって全身に滲み渡る。
険しく断言するアースから眼を反らせないまま、彼女は自身の手に力を込める事しか出来ない。
『…?』
「あ…」
重苦しい沈黙の中、永遠に続くかと思われた呼び出し音が、かちりと通話に切り替わった。
受話器の持ち上がった音に思わず腰が前のめりに動く。
「こちら、デルタフライヤー。今すぐ隣を減速して飛んでいるわ。船の損傷と怪我人を教えて」
『…。』
どうやら、相手の操縦士と話せたらしい。
ルジーの声色にブリジットとヴィヴィアンは無言に安堵の表情を交わした。
が、素直じゃない魔術師は直ぐに慌てて顔を背ける。
けれど相手からの応えは何も返って来ない。
雑音、呼吸、周囲の会話。
静かすぎる応答に、思わず隣人の顔を見た。
眉間を歪ませ、何かを考え深く思案していたアースがこれまで聞いた事のないほど鋭い声を発す。
「ルージュ!通信機を離せ!」
「!?」
「彼」の浸蝕は接触だけに留まらない。
繋がりがあれば、自在に相手を腐らせる。
だからこそ王なのだ、と。
弾けるアースが手を伸ばし彼女から受話器を払う。
半秒おいて鋼鉄の壁が歪に膨れ上がった。
溶けたチーズの様な、熔解的な水泡が受話器を当てていたルジーに向かって大きく立ち上がる。
目の前で起こる悪夢の様な現象に呆然と硬直する躰を突き飛ばし、身を呈すが破裂するスピードには追いつけない。
それは、彼女の顔を覆うほど大きく膨らみ、ぱちんと。
―弾けた。
「っ!う、ぅああああああぁーーーーっ!!」
「!?」
飛沫を受け、肉の焦げる醜悪な音が悲鳴と共に上がる。
顔の半分を抑え彼女は激痛に身を捩らせた。
「アース!」
折り重なる二人に向かい、咄嗟に身を寄せるブリジットにアースは破片に侵されていない方の掌で押し留める。
「ブリジット…俺達に触れるな。感染する」
「か…感染っ!?」
頭から漆黒を被った彼女とは違い、彼の方は肩と腕が溶けているだけだったがそれだけでも惨状は見るに堪えない。
赤い瞳も金髪も跡形も無く染まっていた。
両方の瞳から黒い涙を流すルジーを抱き、聴覚の残る側の耳元に声をかけてやる。
「どうして…こんな…」
支えを無くし、後部座席に倒れ込むと隣で一点に眼を凝らすヴィヴィアンが視界に留った。
彼はこの騒ぎの中でさえ、漠然と流される事無く透明な青眼で崩れ落ちた船壁を黙視している。
獲物の血肉を吸収し、質量の増した滴る液体は意思を持っているかの様に蠢き、ゆるゆると天井に登りつめていた。
湧き上がる恐怖が一人関心無くあらぬ方向をみている彼への怒りに変わるが、直ぐにそれは払拭され、次ぐ戦慄を生む。
「…!」
ヴィヴィアンの視線を辿って見上げた、先にブリジットは短く息を呑んだ。
『ヴィヴィアンヴァルツをこちらに差し出せ。
さもなくば全員、殺す』
天井には。そう、描かれていた。
静かだ。
あれほど激しく船体に響いていた音が聞こえない。
丸く穴の空いた壁から黒鳥達が監視するかの様に、こちらの動向を濁った瞳に映している。
侵入する必要が無くなった彼らは以後、ぴたりと動きを止めていた。
熔解された鉄の縁に留り、羽根から滴る粘液に時折身を捩り、瞬く。
吐き出す血さえ、床に落ちるより早く黒く気化し空気に滲む。
恐怖からまともに姿を見てはいなかったブリジットだったが、手を伸ばせば触れる距離の小さな躰に突然、理解した。
(そうか、鳥達も感染してるだけなんだ…)
自分の意思とは無関係に、何者かによって強要されている。
命をすり減らしながら、ルジーの様に即効性は無いものの同じ効果をもたらすに違いない。
なんて酷い事を…。
洗って落ちないものだろうか?と訴えたが隣に座るヴィヴィアンに軽く否定された。
「…やはり目的はお前か。
相手も向うに乗っていると思ったんだろうな」
ひたひたと天井から落ちる滴が黒煙を上げてシートを焦がす。
避けながらアースはヴィヴィアンに対し睨みを注ぐが、発せられた当人は肩を竦ませるだけ。
それが虚勢であったとしても、他人事な態度を貫く彼に苛立ちは増すばかりだ。
「ビビを?え?知り合い?」
「…あの黒い物が何か知っているっていうの?」
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨