LOVE FOOL・前編
「何だ、この群れ…鳩だよな?」
蒼白な顔色で正面を見つめる三人の視線を自分も追い、ちょっとした嵐くらいにしか思っていなかったヴィヴィアンは呟く。
訝しむ瞳を細く凝らし、溶けた様に窓の表面を滴り落ちる物体に指を延ばした。
「ちょっと…止めなって」
ルジーが制止をかけるが、魔術師は窓に張り付く黒い羽根に向かって自分の掌をぺたりと着ける。
恐怖よりも探究心が勝る…のはやはりブリジットの言う通り彼が優秀なのだから、だろうか。
ガラス越しになぞれば、翼を濡らす油とも血とも形容しがたい黒い液体が指と同時に走った。
真横と、下から上に。
想像するだけで身の毛がよだつが、それは、鳥の形をした小さな蟲が獲物に群がる様。
ひび割れた隙間に嘴を刺し、今にも乗り込もうとする黒鳥から顔を背け訊ねる。
「鳩?鳩って普通、白いんじゃないの?」
左に避けたデルタフライヤーを鳩達は更に追い掛け、次々と己自身を弾丸に船底を撃つ。
インクを被った様に黒い液体と羽を撒き散らせ、自らの命を顧みず。
黒い群れはヴィヴィアンの姿に加速を増したかに見えた。
「とんだ平和の象徴ね…」
衝突の勢いで首の骨が折れようとも、翼が砕けようとも潰れた屍は機体を叩く。
強化ガラスを使っているとはいえ一羽でも中へ。まるでそれ自体が目的であるかの様に、
体当たりを繰り返す凶暴な塊に成す術がない。
縦に割れた隙間から滲み出る濁った血の滴を、醜悪な物を見る眼差しでアースは眉を潜ませた。
「ルージュ、何か窓を覆うものは無いか?」
致命傷を避け、不安定な飛行をしながらも果敢に抗う操縦士の隣で染み入る風に尋ねる。
彼の冷静な口調は変わらないものの、語尾が仄かに重い。
危惧している点は彼女と同じなのだ。
侵入を許せばたちまちこの船は墜ちるだろう。
それだけは阻止しなくてはならない。
ルジーは前を睨みつけたまま、顎で助手席の手摺に備え付けられた脱出用パラシュートを指しそれから「でも…」と付け加えた。
「ここで使えば2人分しか無くなるわ」
それではブリジットとヴィヴィアンしか助からない。
自分は元々この船から逃げるつもりはなかったが、彼は。アースは乗客の一人なのだ。
避けがたい事故とはいえ、道連れには出来ない。
「それで十分。俺のは必要ない」
「―…え?」
簡潔にさらりと言い放つ青年を振り返り、驚きと不可解さに瞳と口を数回瞬く。
まさか犠牲にでもなろうと云うのか。
無言で睨めつける叱責の眼差しを即座に気がついた彼はゆるりと首を振い、両腕で大事そうに抱える友人を魔術師の座る後部席へ移した。
一時の温もりを名残惜しく指でなぞりながら、独白めいた口調で云い落す。
「安心しろ、ここで死ぬつもりは無い」
「そ。なら良いけど」
言葉と思いがけず向けられた笑みにけほんけほんと咳払いで応え、極力淡白に相槌を打って見せた。
どこか嬉しそうに此方を見返す白い秀貌から顔を背け、この状況で不謹慎だと頬を摘む。
ヴィヴィアンの様な自己主張の強い美形には耐性があっても、薄命的な美形には弱いのだ、と初めて彼女は自覚した。
「ふーん。まあ、何もしないよりかはマシか」
危機的状況下、二人の間に生まれた淡い信頼を裂くのは腹立たしいほど怠慢な声。
「何で俺が?」と云う不満顔で震える体躯のブリジットを受け取り、足手まといを押しつけられたと愚痴るが、直ぐに興味は何かをし始めたアースへ移る。
魔術師はむくりと足を組んだまま身を前に起こした。
背もたれに肘を乗せ、傍観者の面持ちで青天を汚す黒い翼と彼とを交互に眺める。
墜落と紙一重の状況ですらアースは少しも表情を崩さず慌てる様子は皆無だった。
元々白い肌ではあるが、今の彼は全く血の気が感じられない。
にも関わらず、軋みを上げ今にも砕け散りそうに反るガラスと漆黒の鳩達を冷然と見やり
パラシュートの自動装置から正確に布地の部分だけを剥ぎ取ってゆく。
布で窓ガラスを補強しようと云うのだ。
内側から張れば、風圧は無理でも鳥の侵入は防げる。
それに比べて…と、ヴィヴィアンは隣で喉をしゃくりあげる気弱な友人を一瞥した。
苛立ちに任せ頭を軽く小突けばブリジットの背筋が跳ねる。
「…役立たずめ」
「うん。そうだよ、ね…」
打たれた指輪の堅い感触を手でなぞり、青年は尚更頭を深く垂れた。
彼の属性専攻は「聖」。
防御を主体とする術式が多く、鎧を持たない魔術師の要だ。
人を護るべき者がこうも簡単に脅かされてどうするのだろう。
「僕にも何か出来るかな…?」
乗り込んだ時と違わぬ姿勢で横柄に座る天才魔術師の顔色を窺う様に見上げ、尋ねた。
慰めるでもなく、あやすでも無い冷淡なヴィヴィアンの一言が逆に彼の心を動かしたのだろうか。
濡れた瞼を忙しなく擦り、それでも鼓動の整わない胸を強く抑えブリジットは健気に深呼吸を繰り返す。
「…俺に聞くな」
友のささやかな奮起にすらさほど興味が無いと言葉を返し、ヴィヴィアンは自慢の銀髪を指に絡めた。
細い指に身を置く9つの宝石が薄暗い機内に一筋の光を発する。
万華鏡の様に交わり多彩に浮かぶ閃光を眩しそうに掌で遮りながら、薄弱な青年魔術師は
その内の一つに眼を奪われた。
左小指で謙虚に光る、白銀の台に丸く磨かれたドロップの様な石。
月の雫を思わせる穏やかな輝き。
美しいと誇示する宝飾特有の煌めきは苦手であったが、唯一その石だけはブリジットが優しいと肌で感じる色だった。
「それムーンストーンでしょ?僕、その石、好きだな。見ていると凄く癒される…」
「は?…地味なだけだろ?お前らしい好みだな…欲しいのか?やらないぞ?」
「…。」
(そういう意味じゃないのに!)
心外なヴィヴィアンの台詞にむ、と口を尖らす。
思った事を言ってしまえば楽になるのだろうが、ブリジットにはやはり言えない…。
一時の他愛ない会話で赤味の射した頬をぎこちなく緩ませ、ヴィヴィアンの美しく均整のとれた面持ち、それから前の青年へと視線を移した。
「僕も何か手伝う」
「そうか…では上も頼む」
端を噛み、裂いた断片を手渡されはっと頭上を仰ぎ見た。
天井には先刻ヴィヴィアンが開いた人独り通れる程の小さい四角い窓がある。
出入りは難しいが鳥の侵入経路としては十分脅威的な広さだ。
鳩が垂直下に飛べるかどうかは知らない、けれど用心に越したことは無い。
そもそも本当に鳥であるかも疑わしいではないか。
左右に揺すぶられるシートに怖々立ちあがり、天上窓に両手を這わせると彼は窓を薄く押し開く。
鼻先が覗くほどの隙間からでも外気は音を立てて機内に流れ込む。
身長の足りないブリジットはつま先を延ばし、よろめきながらも四つ角全ての縁に布地を挟み留め背筋を正した。
前は変わらず見るに堪えない有様だったが、後方は美しい空と雲の絶景が広がっている。
手を伸ばせば触れられそうな厚い白雲は、どこからともなく大地の息吹を運ぶ風に吹かれ
ゆっくりと視界を横切ってゆく。
「あれ…?」
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨