ノブ・・第2部
「じゃノブさん、夕食を準備しますので・・」
「うん、オレ顔洗ってくるわ」
ボクは顔を洗ってサッパリしたところで、さゆりさんに聞いた。
「ね、さゆり」
「はい?」
「イザヨイって、何?」
「ま、ノブさんったら・・十六夜って言ったら・・」
じゅうろくやって書いてイザヨイって読むんです、満月の次の日のお月様の事ですよと教えてくれた。
「そうなんだ、良く知ってるね、さゆりは」
「やだ、普通、知ってますよ、それ位・・」
「十六夜ってね、ノブさん・・」
「・・うん」
「昔は恋人同士が逢引したんですって・・人目を忍んで」
「そうなの?」
そうらしいですよ・・と食事の準備を終えたさゆりさんは「はい、どうぞ、お殿様・・」と微笑んで言った。
「うん」ご馳走を目の前にして、ボクのお腹がグ〜ッと鳴った。
今夜も、豪華な食事だった。
刺身の盛り合わせに焼き魚、野菜と鳥肉の炊き合わせにお漬物・・そして、また、謎の土鍋。
魚は鮎の塩焼きだった。
「あ、オレ・・好きなんだ、鮎」
「良かった、川魚ばっかりでどうかな〜って思ってたんですけど」
「ううん、魚は好きだから、きっと何出されても文句言わないよ!」
「板さんによると、いい鮎らしいですから・・美味しいと思いますよ?!」
「で、こっちは?」
ボクは、小さな土鍋を指差した。
「それは・・・内緒です、ふふ」
そうか、内緒って事は、普通のじゃないんだな?とボクはさゆりさんを見て言った。
「はい、食べた事あるかな?ないかな?」
「お楽しみにして下さいね!」
「じゃ、お一つどうぞ・・」
さゆりさんはコップを持たせて、ビールを注いでくれた。
「うん、さゆりは?」
「私は、御給仕の後に頂きます・・いいですか?」
「いいけど、でもオレだけで飲むのも、なんか寂しいな」
じゃ、一杯だけ・・とさゆりさんもコップを持った。
「今日は、色々と有難う」
「いいえ、お疲れ様でした・・」
ボクらは小さくコップを合わせて、乾杯した。
「はい、召し上がれ」とさゆりさんは茶碗をくれた。
「頂きます!」
美味しかった、刺身も煮物も。
特に鮎の塩焼きは、身もはらわたも、ほんのり西瓜の匂いがした。
「この鮎さ、西瓜みたいないい匂いがするんだけど・・特別なの?」
「分かりました?水の綺麗なとこの若鮎って、西瓜の匂いがするんですって」
「それが、水質が落ちるとキュウリみたいな匂いになるらしいですよ?!」
「そうなんだ・・」ボクは鮎をしげしげと眺めながら、香ばしく焼かれた皮と身を、口に放りこんだ。
うん、昨日の岩魚といい、今夜の鮎といい・・うまい魚は、ほんとに美味いんだね・・と嘆息しながら食べるボクを、さゆりさんは微笑んで見ていた。
「では・・」さゆりさんが土鍋の下の固形燃料に火を点けた。
「何だろ・・」
今夜のは、煮えたらこれにつけて召し上がって下さいね・・と、溶き卵をチャッチャと作りだした。
「ん?すき焼き?」
「ちょっと違いますね、大きさは近いですけど」
大きさが?むむ、何だろう。
暫く土鍋との睨めっこが続いた。
蓋がコトコト踊りだしたのを見て、さゆりさんがおもむろに蓋をとった。
「さ、どうぞ?」
今夜の鍋も、味噌仕立てだった。
「これにつけて・・・と」
ボクは鍋の中の肉を一切れつまんで、溶き卵にくぐらせた。
「何だろう・・」
食べてみると、柔らかくて甘かった。
「何の肉?美味しいんだけどさ・・」
「さくら肉です、お馬さんのお肉なんですよ」
「馬肉?馬の肉って、こんなに柔らかいの?!」
ボクは初めて食べたさくら肉・・というか馬肉に感動していた。
「昨日の猪も美味しかったけどさ、馬肉って甘いっていうか、美味しいんだね、ビックリだよ!」
「良かった、気に入って貰えて。嬉しいです。」
「東京だと、桜鍋って言うんですよね」
「お肉の色が、桜色なんですよ、馬肉は」
「たたきも、おいしいんです」
さゆりさんの解説を聞きながら、ボクはうんうん・・と頷くだけで、口はモグモグと動きっぱなしだった。
「桜鍋は、昔から精が付くって言われてまして・・」
「ふんふん・・」
「馬だから、蹴飛ばしって言ってたんですって、昔の人は」
「けとばしか・・それだけ元気になっちゃうって、コトなのかな」
さぁ、どうでしょう・・その辺は分かりませんけど・・とさゆりさんは下を向いて笑った。
「ん?何で笑ってんの?」
「だって、ノブさんには必要無いじゃないですか・・もう、充分・・」
「でもさ、そんな料理を今夜、オレに出したってコトは・・さゆり?」
「恋人が逢引する十六夜に、桜鍋って・・そういう意味?」
「知りません、御献立は板さんの仕事ですからね・・」
「じゃそういうコトにしておこう・・」
ボクは、桜鍋も美味しく頂いた。
デザートは熟れて甘い・・まくわ瓜だった。
食後のお茶を飲みながら、ボクは天井を向いて呟いた。
「満腹、幸せだよ、オレ・・」
「良かった、満足して頂けて」
さゆりさんは後片付けをして、テーブルを拭いた後に言った。
「後で、お月見しませんか?」
「うん、いいね!」
「でも、どこで?」
「・・お迎えに来ますから、お風呂入って、一休みしてて下さいね」
「うん」
じゃ、待ってて下さい・・とさゆりさんはボクの頬に小さくキスして、出て行った。
さゆりさんが迎えに来るまでの時間、ボクはゆっくりと風呂に入って寛いだ。
「・・月見か」
どこに行くつもりなんだろ・・・と煙草を吸いながら待っていたら「・・・失礼します」と襖が開いた。
そこには、浴衣姿のさゆりさんがお盆を持って座っていた。
「へ〜、雰囲気かわるんだね・・素敵だ」
「有難うございます、じゃ行きますか?」
「うん、そのお盆は・・お酒?」
はい・・とさゆりさんは立ち上がって、「どうぞ・・」とボクを呼んだ。
ボクはさゆりさんの後について廊下を歩き、階段を上った。
「上のお部屋?」
「・・いいえ」
さゆりさんは二階の廊下の端まで行って、振り返って言った。
「縁台って言っても、本当は物干し場なんですけどね・・」
「そうか、じゃ、夜空を邪魔するものが無いんだね?」
「はい」
ボクらはまた階段を上がり、さゆりさんは頑丈な引き戸を開けた。
「どうぞ・・」
「ひゃ〜〜、いいね、ここ!」
物干し場は充分に広くて、真ん中にゴザが敷いてあり、おまけに座布団まであった。
夜の闇の中、頑張って鳴く蝉の声も聞こえた。
物干し竿も片付けられていて、座布団に座って見上げる夜空には丸い月が、それこそポッカリと浮かんで見えた。
「うわ・・満月みたいだね、十六夜って」
「でも、ほんの少し欠けてるんですよね」
「いや、充分に綺麗だよ・・有難う、さゆり」
良かった、喜んで貰えて・・・とさゆりさんはお猪口をボクに持たせて、ガラスの徳利から冷や酒を注いでくれた。
「どうぞ、ノブさん」
「うん、頂きます・・」
ボクは飲みほした後、さゆりさんにもお酌した。
「有難う、ゴザ敷いてくれたり・・・お月見の準備までしてくれてさ」
「・・いいえ、今夜が最後ですから」
「明日、恵ちゃんのお墓参りが済んだら、ノブさん、帰っちゃうでしょ?」