ノブ・・第2部
襖を開けて、さゆりさんが入ってきた。さゆりさん、そこにいてくれたんだ・・。
さゆりさんはスタンドを点けて、マジマジとボクを見て言った。
「ひどい、冷や汗・・」
「ノブさん?横になって下さい」
「うん」
「私、こうして・・触っててあげますから」
「安心して、休んで下さい・・・」
きっと落ち着くと思います・・・とさゆりさんは言って、ボクの横に来てボクの左腕を優しく触りだした。
さゆりさんは、ボクの左腕を指先で触るか触らないか位の感触で、ス〜っと撫でてくれた。
腕全体を、行きつ戻りつ・・。
その柔らかい、羽毛で撫でられている様な感触に、ボクは目を閉じて集中した。
暫くして動悸は収まり、嫌な冷や汗も引いた。
「・・・いい、気持ちだよ、さゆり」
「はい、私も昔、怖い夢見て起きてしまった時に、お母さんがこうやって寝かしつけてくれたんです」
「そうなんだ・・・いいね、これ」
ボクはすっかり安心して、さゆりさんの指先に酔っていた。
暫くしてさゆりさんはボクの横に寝て、浴衣の合わせを少し開いて、胸を同じ様に触ってくれた。
そして小さな声で、歌いだした。
それは、ボクにも聞き覚えのある歌だった。
「何ていう、歌・・?」
「モーツァルトの、子守唄です」
・・眠れ良い子よ・・
目を閉じて聞くその小さな歌声と、優しい指先の感触は、ボクの心を心地良く鎮めてくれた。
「さゆり・・・」
「お休みなさい、ノブさん」
「・・・」
ボクは、寝る事が出来た。
最後に覚えているのは、耳に流れた一筋の涙の冷たさだった。
「・・お早うございます、ノブさん」
「ん?」
ボクは、和服姿でボクの横に正座したさゆりさんに声をかけられて、目を覚ました。
「おはよ、早いね・・」
「はい、朝食の準備が出来ましたけど」
「うん、起きよう」
ボクは布団から起き出して、浴衣を直した。
「何時?」
「8時です」
洗面所に行き洗顔して歯磨きして・・2、3度「オエ・・」っとなりがら、ボクはようやく頭が冴えてきた。
「ふ〜!目が覚めた」
「はい・・」
振り向くと、さゆりさんがタオルを捧げて立っていた。
「まだ、オレは殿さま?」
「勿論です!」
「でも・・」
「でも、なに?」
「夕べのお殿様、可愛かったですよ?!」
そうだった、ボクはさゆりさんの子守唄で、寝ちゃったんだ。
「何か、恥ずかしいね」
「いいえ、さゆりは嬉しかったんです」
私の子守唄で、ゆっくり休んでくれて・・・とさゆりさんはボクに抱きついて、言った。
「有難う、ノブさん・・」
「こちらこそ、お陰でグッスリ休めたよ。有難う」
「良かった」
「さ、朝ご飯、召し上がって下さい・・・」
さゆりさんは、お櫃の横に座ってご飯をよそってくれた。
「気分はどうですか?食欲は、あります?」
「うん、スッキリしてる、熟睡出来たんだね」
有難う、さゆり・・とボクはお茶碗を受け取って、食べ始めた。
「これは?」
「銀鱈の西京焼きです、お嫌いですか?」
「ううん・・多分、好き!」
西京焼きは、鱈の身がほろほろと柔らかく解れて、高級な味だった。
お漬物も、山菜の炊いたのもお味噌汁も美味しかった。
「ほんと、美味しいね、ここの料理」
「・・今朝は、私が作ったんです」
さゆりさんは少しはにかみながら、御代りしてくれた。
「え、板さんじゃないの?」
「はい、ノブさんのご飯、作りたくって・・」
「有難う、さゆり」
少し照れくさかったが、さゆりさんの心遣いが嬉しかったボクは、お腹一杯食べた。
「ふ〜、もう入んない。ご馳走様でした!」
「お粗末さまでした」さゆりさんは微笑みながら、テーブルを片付けた。
「・・ノブさん、良く食べますね」
「うん、胃袋はデカいみたい」
「嬉しいです、そうやって美味しい・・って食べて貰えると」
ボクは、同じ事を言われた京都のおばちゃんを思い出して、笑った。
「どうか、なさいました?」
「ううん、思い出し笑い・・」
さゆりさんは、一瞬・・・顔を曇らせた様に見えたが、すぐににっこりして言った。
「食後は、コーヒー・・いかがですか?」
「あ、嬉しい!コーヒー飲みたいな!」
「じゃ、今、お持ちしますね・・」
さゆりさんが朝食を下げて部屋に戻るまでの間、ボクは一服しようと部屋の窓を開けた。
途端に夏の匂いと、ここを先途と鳴く蝉の大合唱が部屋に流れ込んだ。
「青空の色が、違うな・・」
宿の庭の上には、抜ける様な青空が拡がっていて、今日も暑くなりそうだった。
でも、思いの外・・風は涼しかった。
「やっぱり、東京とか京都とは、違うんだ・・」
湿度の違いか?と考えてたら「ノブさん・・」と声をかけられた。
「暑くないですか?窓開けて・・」
「うん、蝉の声と、青空が気持ち良くてさ」
さゆりさんは、お盆から洒落たコーヒーカップをテーブルに置いた。
「頂きます」
いい香りがして、コーヒーも美味しかった。
「・・美味しい」
墓参り
美味しいコーヒーを飲みながら一服しようと、ボクは煙草を咥えた。
「・・はい」さゆりさんがまた、火を点けてくれた。
「有難う」
ボクはゆっくりと煙を吐いて、窓の外を見た。
「さゆり、今日・・付き合ってくれるの?」
「はい」
「何時頃、ここを出たらいいのかな」
さゆりさんは時計を見て考えてから、言った。
「では・・少ししたら、玄関に来て頂けますか?」
「うん、チェックアウトは、その時でいい?」
「・・・」
さゆりさんは、それには答えず曖昧に微笑んで「では・・・」と部屋を出ていった。
ボクはちょっと不思議だったが、深くは考えずに時計を見た。
「9時過ぎか」
ボクはゴロっと横になって、天井を見上げた。
「恵子のお墓か・・」
天井の木目を眺めながら、ボクは蝉の声に耳を澄ませて目を閉じた。
「乾徳山でも鳴いてたな、こんな風に・・」
さて・・とボクは着替えて、ディパックを肩にかけて玄関に向かった。
途中、初めて他の仲居さんとすれ違った。
「あ、お早うございます!」と腰を90度近く折り曲げて丁寧な挨拶をされて、「お、お早うございます・・」とボクも慌てて頭を下げた。
「何か、バカに丁寧だったな・・」
ボクが玄関に着くと、白髪の番頭さんと別の仲居さんが数人並んでいた。
帳場の前でディパックを開けて「お会計を・・」とボクが言うと、番頭さんは「いえいえ・・」とだけ言って、玄関の扉を開けた。
そして「行ってらっしゃいませ!」と送り出してくれた。
「え?あ、はい・・」ボクは頭の中に「???」を抱えながら、玄関でスニーカーを穿いて外に出た。
外ではさゆりさんが小さな車の横に立って、ボクを待っていてくれた。
そして、「どうぞ・・」と助手席のドアを開けた。
「うん、有難う」
ボクがドアを閉めると、さゆりさんは車を発進させた。
後ろを振り返ると、番頭さんと仲居さんが頭を下げていた。
「は〜、丁寧なんだね、さゆりの宿は」
「ふふ、ノブさんは特別です・・・」
さゆりさんは微笑みながら、言った。
昨夜、あんまりさゆりさんの帰りが遅かったんで、番頭さんとか仲居さんが噂をしてたらしい。