ノブ・・第2部
途中からボクは、女将さんが滲んでしまって、もう涙を堪えるのは無理だった。
こぶしを握り締めるだけで、ボクはもう何も言えなくなっていた。
「君の事、最後まで心配しながら逝っちゃったんだよ、恵ちゃん」
ボクはテーブルに両肘を付いて、顔を覆った。
それでも、流れる涙を止める事は出来なかった。
追憶の中の恵子
顔を覆って嗚咽を漏らすボクを、女将さんはしばらく黙って見ていたんだろう。
「これ、下げてきちゃうね・・」と言い残して、静かに部屋を出て行った。
ボクはどうしていいのか分からずに・・いや、はっきり言えば何も考えられずにテーブルに突っ伏して泣いた。
恵子の最後を、看取ったとは言えないまでも近くにいてくれた人の言葉は、ボクに思い切り衝撃を与えた。
「最後まで、ボクなんかのコトを」
心配をかけまいとした恵子の優しさ、気遣い。
「どこまで優しいんだよ、恵子・・」
「いいかしら?」
「あ、はい」
ボクは手の甲で涙を拭って、顔を上げた。
目の前には、女将さんが座っていた。
「ね、飲もうか」
「今夜はさ、君・・一人じゃ辛いでしょ?」
「私、この部屋の専属になってあげるから、飲もうよ」
「二人で恵ちゃんを偲んでさ」
見ればテーブルには、ビール瓶とコップが載っていた。
「いや、いいです・・大丈夫ですから」
「思い出して泣くのは、慣れてるし」
ボクは笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。
「そういうのってね、痛々しくて見てられないの」
「それに、思い出して・・その人を語るのって、一番の供養になるんだってよ?知ってた?!」
「知らない・・・です」
「いいから、付き合いなさい」
私も恵ちゃんの思い出、聞かせてあげるから・・と女将さんはボクにコップを持たせて、ビールを注いだ。
「いいんですか?ほかのお客さん」
「いいの、今夜は他にお客なんていないんだから」
ボクらは、小さく乾杯した。いや、献杯・・か。
「私と恵ちゃんはね」
「お互いに一人っ子でね、幼稚園の時から仲良しだったのよ」
「恵ちゃんもちょくちょく遊びに来たんだよ?うちに」
「私もよく行ったな・・恵ちゃんち」
「運動神経はね、私のが良かったの!でも」
「成績は敵わなかったな・・頭良かったもんね、恵ちゃん」
「そうなんだ・・」
ボクは運動神経云々のところで、捻挫して往生してた恵子を思い出した。
「ね・・」
「はい?」
「君、小川君だったよね」
「はい、宿帳に書いた通りですけど」
「恵ちゃんは何て呼んでたの?君の事」
「ノブって」
「ノブ、か」
「ノブ君はさ、浪人?現役?」
「現役です」
「じゃ、今18歳?」
「はい、11月には19になりますけど・・」
「ひゃ〜、随分年下なんだね」
「ごめんなさい」
謝る事じゃないでしょ〜!と女将さんは微笑みながらコップを空けた。
ボクは、お酌しながら不思議な感じだった。
女将さんは、きっとボクに気を遣ってこんなに明るく振舞ってくれてるんだろう・・と思った。
「あのボク、大丈夫ですから」
「は?」
「間違っても・・その」
「何言ってるの、そんな事なんか心配してないわよ」
「私はね、思い出話がしたいの、恵ちゃんの」
「ね、そんな年の離れた二人がさ、どこでどう知り合ったの?」
「聞かせてくれないかな」
「恵ちゃんの叔父さんの開店祝いね、私もお邪魔したのよ」
「その時にね、恵ちゃん、嬉しそうに話してくれたわ・・」
「年下なんだけど素敵な彼が出来たってね」
「え、聞いてたんですか?ボクのコト」
そうよ、あの時は憎らしくてしょうがなかったんだから・・と笑った。
「私は・・彼なんていないからね」
「でもね、今度詳しくね・・なんて言って、そのままになっちゃった」
だから本人に聞くんだと、女将さんは笑いながら言った。
ボクも、コップを空けて手酌しようとしたら取り上げられた。
「手酌は駄目よ?!」
「男が手酌したら、出世しないって言われてるんだから!」
「ハイ・・」
ボクは、乾徳山での出会いを話した。
そして、お互いに好きになって付き合いだしたと。
「へ〜、そんな出会いだったんだ」
「山登りか・・私もやろうかな」
「ね、それで捻挫したら私にも彼氏が出来るかな?」
ボクは、曖昧に微笑むコトしか出来なかった。
「ね・・恵ちゃん、可愛かったでしょ?」
「はい、可愛かったです」
「困ってたから助けたの?それとも・・」
可愛かった・・から?と聞かれて、ボクは正直に言ってしまった。
「恵子じゃなかったら、一緒に下山まではしなかったでしょうね」
「うわ〜、ヒドイやつだね・・ノブ君も!」
すいません・・ボクは下を向いて笑って謝る真似をした。
涙が、ポチっと畳に落ちた。
俯いたボクに、女将さんは優しく言ってくれた。
「ノブ君、飲もうよ」
「はい・・」
ボクは、注がれたビールを一気に飲み干した。
「ふ〜、すいません」
「何謝ってるのよ!いいの、付き合ってあげるから」
「はい」今度は女将さんが、ボクにコップを差し出した。
「はい・・」
「有難う」女将さんも、グ〜っと空けた。
「こうやってさ、恵ちゃんを知ってる人間が思い出を語ってね」
「色々ぐるぐる回ってるでしょ?」
「ノブ君の頭の中・・」
吐き出しちゃいなさい・・と、ニッコリ微笑んで言った。
「でも・・」
「何?」
「女将さんの知ってる恵子の話しも、聞きたいです」
「あのさ、さっきから気になってたんだけどね?」
「はい」
「その、ですます調・止めようよ」
「え、でも」
「恵ちゃんの事は何て呼んでたの?」
「恵子・・ですけど」
「ほら、恵子さんじゃないんでしょ?」
「ですます調だった?」
「まさか」
「でしょ?」
「だから私にも友達みたいに話して・・ね?!」
「何か、よそよそしくてやだな」
「はい・・」
分かりました・・と一応言ってはみたが、恵子と同じ年の女将さんとは今日が初対面だし、いきなり友達みたいにと言われても困ってしまった。
「じゃさ、私の事、女将さんじゃなくて名前で呼んで!」
「女将さんって思うから、そんな言葉使いになっちゃうんじゃない?」
「え、名前?」
「うん、小百合」
「さゆり・・さん?」
「そうね、その方がいいわ、私も」
「女将さんって呼ばれるとさ、つい・・仕事っぽいでしょ?」
「分かりました、さゆりさん」
「ちょっと、違うんじゃない?ノブ君」
「分かったよ、さゆりさん!」
ボクはもう、どうにでもなれ・・の心境だった。
でも、話し方を変えただけで、少し女将さん・・いや、さゆりさんとの距離が縮まった気がしたのは確かだった。
そして、この遣り取りのお陰で、ボクの涙はいつの間にか・・乾いていた。
「有難う、さゆりさん」
「オレ、泣き止んじゃったみたい」
「良かった」
「あ、ちょっと待っててね?!」
さゆりさんは、そう言って部屋を出て行った。
さゆりさんが出て行った襖を、ボクは不思議な気持ちで眺めていた。
「また、来るんだろうな」
ボクは恵子の事を話したいとも思ったが、話すコトに耐えられるのかどうか・・自信が無かった。