ノブ・・第2部
「きっと、ベニヤなんか使ってないんだろうな」
築何年位なんだろう・・今まで何人位の人が、こうやって天井を眺めたんだろう・・・等と考えて、ボクは改めて時間の流れというものに思いを馳せた。
結局、傷を癒せるのは時間だけと親父は言った。
ボクはまだ、そのコトを実感出来ずにいた。
「仕方ないのかな・・」
部屋の中はいつの間にか、黄昏から淡い夕闇に変わっていたが、ボクはそのまま薄暗い天井を見ていた。
「失礼します」
「はい」
ボクは起き上って襖が開くのを見た。
「なに〜?暗いままで・・・寝てたの?」
「いや、ちょっとボケ〜っとしてて」
「電気、点けるわよ?!」
仲居さんがスイッチを入れて、部屋は明るくなった。
仲居さんはテキパキと夕食の準備を始めた。
夕食は豪華だった。
でも、テーブルに料理が並べられても仲居さんは出て行かずに、お櫃の横に正座したままだった。
「あの・・」
「いいの、気にしないで?」
「お給仕も仕事のうちだからさ」
「いいんですか?」
どうぞ、召し上がれ?とニコニコ。
ボクは観念して、お茶碗を受け取って食べ始めた。
付け出しもお刺身も美味しくて、焼き魚もすごく美味しかった。
「これ、なんですか?」
「あ、岩魚ね。今日はいいのが入ったみたい」
「岩魚・・」
僕は恥ずかしながら、岩魚は初めてだった。
食べながら幼い頃に好きだった「竜の子太郎」を思い出していた。
「うん、こんなに美味しかったら、お母さん・・・食べちゃうワケだよな」
「え?なに?」
「童話なんですけど、山の中で留守番のお母さんがみんなの分の岩魚を食べちゃうんですよ、美味しくて我慢できなくてね。そして・・・」
「罰が当たって・・お母さん、竜になっちゃうんです」
「ふ〜ん、そんなお話があるんだ」
「はい・・最後は、大きくなった子供の太郎が村を救う時に、竜になったお母さんが体を張って村を救うんですけどね」
「じゃ、うちの岩魚は、その位美味しいって事?」
「ボク、虹鱒とか山女?は食べた事ありますけど・・」
「岩魚・・凄く美味しいですね」
ありがとう、板さんにも伝えとくわ・・と仲居さんは、お代わりをよそってくれて、今度は小さな鍋の下の固形燃料に火を点けた。
「これは、どうかしら」
「食べた事ある?」
「なんですか?この鍋は・・」
「煮えたらのお楽しみね!」
程なく、鍋はコトコト言い出した。
「さ、いいわよ」と仲居さんが鍋のふたを取ってくれた。
味噌仕立ての汁の中で、肉と野菜が小さく踊っていた。
そして、ホワンといい匂いがしたが、それは牛でも豚でもない匂いだった。
「何だろう」
肉を一口、食べてみたが、それは今までに食べたコトの無い味だった。
「美味しい!何の肉ですか?これ」
「ふふ、猪なの」
「この辺の名物って言うか、山の料理ね!」
「どう?美味しい?」
「はい、美味しいです」
「いのししって、もっと野性味のある味なのかな?って思ってました」
「気に入って貰えたら嬉しいわ」と、嬉しそうに仲居さんの顔がほころんだ。
初めての猪鍋も美味しく平らげて、ボクは満腹になった。
「ご馳走様でした、美味しかったです!」
「よかったわ、ハイ、デザート」
仲居さんが続いてテーブルに置いたのは、バニラアイスとメロンだった。
「豪華ですね!」
「デザートは、代わり映えしないけどね」と笑った。
ボクはデザートを食べながら、気になっていたコトを聞いた。
「あの、いいですか?」
「なに?」
「ひょっとして、女将さんなんですか?」
「よく分かったわね!そうよ、若女将ってヤツ」
「どうして分かったの?」
「だって、宿代勝手に決めちゃうし、板さんに伝えとく・・とか、女将さんじゃなきゃ出来ないし言わないでしょ」
「そうなの、去年の暮れからここの女将なのよ」
去年の秋、父親が脳梗塞で倒れてね・・大学生だった私が急遽呼び戻されて、若女将ってワケ・・とテーブルを片付けながら、仲居さん・・いや、若女将は言った。
「仕方ないわよね、家族の危機を知らん振りは出来ないもん」
「そうなんだ、大変ですね」
「いいの、いずれは帰るって約束で東京に出してもらったんだからさ」
でも、卒業はしたかったな・・と少しだけ寂しそうな横顔で言った。
「お父さん、まだ悪いんですか?」
「ずっと病院に入ったきりね」
「意識はしっかりしてるんだけど、体の麻痺が・・・ね」
「本当の女将さん、私の母親が付き添いしてるからさ、私が頑張らないと」
そうだったんだ、悪いコト聞いちゃったかな・・とボクは黙ってお茶を啜った。
「あのさ、私も聞いていい?」
「あ、はい」
「こんな田舎に、何しに来たの?」
「君、バックパッカーには見えないし、ここらは有名な観光地ってワケでもないし」
「ゼミか何かの研究・・とか?」
ちょっと行けば、昔の宿場跡なんかはあるけどね・・としげしげとボクを見つめて言った。
困った、どう言えばいいんだろう・・とボクは少しの間、逡巡した。
でも、悪い事をしに来た訳じゃないんだから、いいか・・とボクは話すことにした。
「実は、亡くなった彼女の墓参りに来たんです」
「え、亡くなっちゃったの?彼女・・」
「ここら辺の人だったの?」
「はい、すぐ近くです」
「いつの事?亡くなったって」
女将さんの顔が、少し強張った。
今年の2月なんです・・とボクは言った。
「雪の日に、交通事故で」
女将さんは、布巾を持った手を止めてボクを凝視して言った。
「もしかして・・君の彼女って、恵ちゃん?」
「え?!恵子のコト、知ってるんですか?」
「知ってるも何も、幼稚園から高校までの同級生よ、私達」
「恵ちゃんの彼氏って・・君だったの」
心底驚いた。
恵子のコトを「恵ちゃん」と親しげに呼ぶ女将さんを、今度はボクが凝視する番だった。
「亡くなったって、2月って聞いた時に、もしかしたらって思ったけど・・」
「君だったんだ・・」
しばらくの間、ボクらは無言で見詰め合っていた。
「驚いたな・・」
「私の台詞よ、それは」
女将さんは続けた。
「それに、多分・・最後に言葉を交わしたのも、私よ」
「あの日ね、父親を見舞った後、帰ろうとして病院の玄関で傘を開いたの」
「そうしたら、救急車が来てね、ストレッチャーの上の人のコートに見覚えがあったから・・」
駆け寄って恵子だ・・と分かったのだ、と言った。
「お知り合いですか?って救急隊員に聞かれてね、はい、同級生です、昨日も一緒でしたって言ったの」
処置室に運び込まれた時、そばに付いて女将さんは励ましてくれた。
その時、恵子はうわ言の様に言ったのだそうだ。
「あの人には、知らせないで」
「こんな事で、心配をかける訳にはいかないから・・」
「今は、大事な時期だから・・」と。
「それから急いで恵ちゃんのお家に電話しに、廊下に出てね」
「事故を知らせて処置室に戻ったら、恵ちゃん、息しなくなってた」
何度もなんども、名前を呼んだと女将さんは言った。
でも、もうダメだった・・・綺麗な顔したまんま、恵ちゃん、死んじゃった・・と肩を落として目に涙を浮かべて。