ノブ・・第2部
店を出たボクらは、ニコライ堂のシルエットを眺めながらブラブラと歩いた。
酔った頬に夜風が気持ち良くて、ボクは大きく伸びをした。
「ノブさん、聞いてもいい?怒らない?」
「うん、なに?」
「恵子さんの会社って、この辺だったんでしょ?」
ボクは真由美を見ながら、言った。
「すぐそこ。行ってみる?」
「ノブさん、平気?」
ボクは、何も言わずに歩きだした。
平気なのか?オレは・・。
気が付けば、風は止んでいた。
そう、このニコライ堂の横の路地を抜ければ・・恵子がいた会社はすぐだった。
「待って、ノブさん・・」真由美の声が追いかけてきた。
ボクは振り向かずに歩いた。
やがて、通りの向こうに恵子のいた会社が見えた。
「変わってないんだな・・当たり前だけど」
真由美は少し遅れて、ボクの隣に来た。
「ノブさん・・」
「・・・・」
独り言の様に、ボクは呟いた。
「あのビルだよ、恵子の会社は」
ボクはビルを見つめたまま、何も言えずに立っていた。
心の中に、何か分からない黒い塊が押し込まれた。
真由美はボクの左手を両手で抱え込んで、言った。
「ごめんなさい、また私・・」
黙って立ちすくむ2人の目の前を、空車のタクシーが猛スピードで坂道を駆け上がって行った。
真由美が、ギュっとしがみついた。
「行こうか」
ボクは腕を真由美に任せたまま、来た道を戻った。
恵子の会社のビルが、ボクらの後ろで段々と遠ざかった。
途中、真由美が振り返ったのに気付いたが、ボクは何も言わなかった。
角を1つ曲がって、ビルはもうきっと見えなくなったはずだ。
「ノブさん」
「ごめんなさい、私・・」
「謝るな!」
ボクは、立ち止まって真由美を振り返って、大声を出した。
「謝る位なら・・最初から言うなよ!」
ボクは苛立っていた。
「そんなに面白いか?恋人に死なれた男に思い出を突きつけて」
「私・・そんな積もりじゃ・・」
「じゃ、どう言う積もりなんだよ!思い出巡りして、オレが喜ぶとでも思ったのか?!」
「・・・・」
真由美は、ボクから手を離してうな垂れた。
「ごめんなさい、私・・・」
ボクは、大声を出してしまった自分に嫌気がさして、一服したくて道の横の公園のベンチに座った。
煙草に火を着けたとこで、真由美がボクの目の前に立った。
煙を深く吸い込んで、ボクはゆっくりと吐き出した。
何度かそうする事で、苛々は少し・・凪いだ。
ボクは、目の前の真由美に言った。
「ゴメン、大きな声出しちゃって・・」
「少し、座って休もう」
真由美は、それでも立ったままだった。
「座りなよ」
ボクは目を上げて真由美を見た。
真由美は、静かに泣いていた。
ボクは真由美の手を引いて、横に座らせた。
「怒って、ゴメン・・悪かった」
「何か、苛々しちゃってさ、何でだろうな」
真由美は何も言わずにボクの首に両腕をまわして、横からボクを抱きしめて言った。
「自分が嫌になる」
「無神経な女で、ごめんなさい・・・」
真由美はボクのうなじに顔を押し付けて、泣きながら続けた。
「ノブさんを傷つける積もりなんて無かった」
「ただ、知りたかったの・・」
どんな所で働いてたのか、どんな人だったのか・・と。
ボクは、煙草を足元で踏み消して言った。
「優しい人だったよ」
「大人しくて目立たない、なんて自分では言ってたけどね」
「結局、オレには悪いとこなんて一つも見せずに、遠くに行っちゃった」
「考えてみれば、たった8ヶ月だもんな、付き合ったのってさ・・」
ボクは、もう苛々してはいなかった。
2本目に火を着けて、ボクは真由美を見て言った。
「怒って、ゴメン」
「ビルがさ、前とちっとも何にも変わってないって思ったら、妙に苛々しちゃって、当たり前なんだけど」
「真由美さんが悪い訳じゃないのにな」
ボクは下を向いて、自嘲した。
「ノブさん・・」
「なに?」
真由美は、ボクの首にしがみついたまま言った。
「私の事、嫌い?」
「ううん」
「じゃ好き?」
「・・・・」
「答えられないよね、こんな質問。」
「でも、嫌い・・では、ない?」
「うん」
真由美は、腕をほどいてボクの前に顔を持って来た。
そしてキスしてきた。
とても自然なキスだったから、ボクはそれを受けた。
気付いたらボクは、しっかりと真由美を抱きしめていた。
真由美は、舌を差し込んで来た。
それは柔らかくて、温かかった。
「タバコ臭い・・」そう言って笑って、真由美はまたキスをした。
今度は貪る様に、ボクの舌を絡め取って、吸った。
口を離して真由美は言った。
「ずっと思ってたの」
「ノブさんのキスって、どんな味なのかなって」
「どうだった?」
「美味しかった!」
真由美は、ボクの胸に顔を押し付けて言った。
「怒らせて、ゴメンなさい」
「もう、いいって」
「キスは?嫌じゃなかった?」
「うん、嫌じゃなかったよ、けど・・」
「けど?」
もう、これ以上はヤバいよ・・と言いながらボクは立ちあがった。
「どうしたの?怒ったの?」
「ううん、怒ってないよ」
「でも、これ以上したらブレーキ効かなくなっちゃうから」
真由美も立ちあがった。
「今夜だけ、お願いだから今夜だけ」
「・・・」
そう言って抱きついて来た真由美のふくよかな胸が、ボクの鼓動を一層速くした。
真由美は、ボクをしっかりと抱きしめて言った。
「ノブさん、ギュっとして」
ボクは、少し躊躇った後、真由美をかたく抱きしめた。
髪の匂いが女を感じさせて、ボクは目を閉じた。
「あのね、オレ・・」
「なに?」
「いい、何でもない」
ボクはこの期に及んで言い訳しそうな自分に嫌気がさして、話しを止めた。
「少し、歩こうか」
ボクらは御茶ノ水の駅に沿って、聖橋と逆方向に向かった。
真由美はボクの手を取って、振り返って言った。
「夢だったんだ・・」
「いつかこんな風に、ノブさんと手を繋いで歩けたらいいなって」
「・・・・」
「風が気持ちいいね」
「うん、涼しい」
ボクらは駅前の交番のある交差点で、青信号を待った。
ここを左に下れば、ボクのアパート。真直ぐに渡れば・・・真由美のアパートだった。
「うちに来て」
小さな声で真由美が呟いた。
「うん」ボクは、もう考える事を止めた。
こんなにもボクの事を好きだと言ってくれてる女性を、これ以上邪険にする事は出来なかった。
それに、この腕を振り払って帰るには、真由美は魅力的過ぎた。
信号が青になって、ボクらは渡った。
それから真由美のアパートに着くまでの道々、ボクらは無言だった。
懐かしいレモンの角を曲がって、アパートに着いた。
「オンボロだけど、私のお城なの」
恥ずかしそうに言う真由美がいじらしくて、ボクは自然に微笑んでいた。
アパートの階段を、真由美が先になって上り、部屋の鍵を開けた。
「入って・・」
真由美はボクを部屋の中に入れて、後ろ手で鍵を閉めた。
そして、ボクの背中に抱き付いた。
「今夜だけ・・・ね」
真由美は、ボクの前になって靴を脱ぎ、電気を点けずにボクを奥の部屋に引っ張って行った。
襖を開けると、薄暗い部屋の中にベッドがあった。