からっ風と、繭の郷の子守唄 第56話~60話
「下から支えています。そのままゆっくり腰を沈めてください。
バランスを崩して落ちると、この高さからでも、大変なことになります。
千尋さんは無邪気なくせに、時々、大胆なことを
やってのけるタイプのようですね。
大丈夫です。健康的なお色気を充分にいただきました。
あっ、・・・変な妄想は一切していませんので、どうか安心してください。
予想外に軽いことに、実はびっくりしています」
反省しているのか、ヘルメットを装着した千尋が無言のまま
バックシートへ、チョコンと収まる。
康平が運転席へ座ろうとした瞬間、『あっ』とまた小さな声をあげる。
『私の足跡が、!』あわててハンカチを取り出す。
手早くひろげて、運転席へ敷く。
『気がつくのが遅すぎるますね、わたしは。うっかり者です本当に』
小さな声のつぶやきが、ヘルメット内のインカムを通して、しっかり康平の
耳に届く。
『悪意のない失敗です。気にしないでください。
無邪気なところも、千尋さんの魅力のひとつですから・・・』
康平がインカムを通して、千尋へささやく。
バックシートから伸ばされた千尋の両手が、柔らかく康平の腰へ巻きつく。
自分の体温のすべて伝えるかのように、千尋が前傾していく。
千尋を乗せた康平のスクーターが、はるかに見える養蚕農家群に向かって、
再び畑道を発進していく。
養蚕界で先進的な役割を果たしてきた境町・島村に現存している
大型の養蚕農家は、全部で72棟におよぶ。
櫓付きで、総2階の瓦ぶきの建物のほとんどが、幕末から昭和初期に
建てられている。
それらの中で、もっとも中心的な役割を果たしてきた田島弥平旧宅は、
家屋内に残されていた棟札から、1863(文久3)年の建築であることが
確認されている。
島村地区では、江戸時代の中期から、蚕を育てて繭をとる養蚕業と共に、
そのみなもととなる蚕種(さんしゅ)の製造が盛んにおこなわれてきた。
その中で田島弥平は、もっとも先進的な役割を成し遂げてきた。
蚕種(さんしゅ)というのは、カイコの卵のことだ。
カイコのもとになる雌のガは、交尾後に、500粒から700粒の卵を産む。
この卵からカイコに成長する原型を作り出していく、それが蚕種(さんしゅ)だ。
原型を生み出す、この蚕種の技術は難しい。
こうして生産された蚕種を、養蚕農家が育てて、やがてカイコから繭になる。
蚕の飼育も、また難しい。年により収量に大きな差が出る。
田島弥平は各地にある養蚕方法を、徹底的に研究する。
やがて蚕の飼育には、自然の通風が重要であると考えるようになる。
「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功する。
「清涼育」に適した蚕室の工夫も積極的に行う。
文久3年(1863)、棟の上に換気の設備を備えた、瓦屋根総二階建ての
住居兼蚕室が完成する。
横方向の長さ24.3m。縦方向が9.1mにおよぶ、大規模な建物だ。
1階を人が住まう住居として使い、2階が専用の蚕室として使われる。
弥平は「清涼育」の普及のため、明治5年(1872)に『養蚕新論』を書き下ろす。
ヤグラを取り付けた養蚕農家建築は、その後の養蚕農家建築の標準になった。
「間近で見ると、さすがに大きいですねぇ・・・」
千尋が田島弥平旧宅の、屋敷門の前に立つ。
見上げている千尋の口元から、何度もはぁぁ・・・と溜息が漏れる。
門は武家屋敷などによく見る、長屋門の趣を真似ている。
右手に、蔵のような窓が見える。左側には、拡張された蚕室が見える。
最盛期、100人を下らない人たちが働いていた豪農の屋敷だ。
屋敷門を見上げたまま、千尋は何時まで経っても動こうとしない。
口元を開けたまま、初めて見る景色に魅了されている。
だが、入口に高札のような立札が有る。
『個人所有の建物につき、許可なく立ち入りことを厳しく禁ず』と書いてある。
文化財に指定されている田島邸だが、ここはいまだに人が住んでいる。
いったい、どんな人がここに住んでいるのだろう・・・
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第56話~60話 作家名:落合順平