からっ風と、繭の郷の子守唄 第56話~60話
「前橋からここまで、40分と少し。
赤城山はすっかり小さく見えるし、どちらを見ても平坦地ばかりです。
ここから始まる広大な景観が、日本最大の関東平野になるのですね。
ということは、いま私たちが立っているのは、平坦地の起点なのかしら」
「そういう事になるでしょうね。
利根川は、ここから東南方向へ180キロほど下っていきます。
最後は銚子から、太平洋へ流れ出ます。
この大河が、桑の木を育てるために大きな役割を果たしました。
川は何度も氾濫を繰り返しました。
その結果、川が決壊した南岸の一帯に、栄養豊かな肥沃な大地が生まれます。
洪水は、もうひとつの効果を生み出します。
桑の木に巣食う天敵や害虫が、洪水によって押し流されてしまいます。
そうした恩恵を受けたことで、健康で、優良な桑の木がたくさん育ちました。
ただし、良いことばかりではありません。
水があふれるたびに、甚大な被害を受けてきたことも事実です。
島村の人たちは、そうした困難も乗り越えて今日の繁栄を築いてきました。
今でも残っている超大型の養蚕農家は、そうした遺産群です」
『うふふ。楽しみです。そうした大きな建物たちが』
嬉しそうに答えている千尋が、康平の腰へ回した両手へあらためて力を込める。
いつのまにか密着する態勢が様になって来た。
運転する康平のヘルメット越しに、交互に顔を覗かせながら千尋が、
飛び去っていく景色を満喫していく。
後部座席に座った瞬間に見せた躊躇いと警戒心は、すっかり薄れている。
大胆すぎるほどの密着をみせる千尋から、時々、柔らかい胸の感触が
康平の背中へ伝わってくる。
感触を得るたびに、なぜか康平の方が逆に緊張の様子をみせていく。
長い橋を渡り終えた康平のスクーターが、堤防からゆっくり下っていく。
最初の交差点を、本来なら右へ曲がる。
そこから西へ向かうのが、島村の農家群に向かう本来のコースだ。
だが康平はそのまま交差点をパスする。
すこし南に走ってから、次に見えた畑道を右折する。
畑道とはいえ、狭いながら綺麗に舗装が施された快適な道路だ。
数軒の民家を越えると、前方に、どこまでも広がる緑一色の畑が現れる。
「青い畑? あら。一面のネギ畑ですねぇ。限りなくネギが続いています。
もしかして、これが噂の深谷のネギですか?」
「そうです。これが深谷ネギの畑です。
これも、利根川の氾濫がもたらした恩恵のひとつです。
肥沃な大地が、茎が真っ白のネギを育て上げてくれます。
柔らかい土地で真っ直ぐ伸びる、牛蒡(ごぼう)も特産です。
遠くに、フキのような葉っぱがみえるでしょう。
あれが牛蒡です。
あんなに大きく育っているのに牛蒡の葉は、残念ながら食べられません」
「康平くん。この景色が見せたくて、わざわざ遠回りしたんでしょ?」
「はい。背中の感触がとても刺激的です。ささやかな感謝の遠回りです。
あなたの胸は・・・・誘惑的過ぎます。
もう俺の背中は、さっきからメロメロの状態です」
『あっ!』大きな声をあげて、千尋があわてて康平の背中から離れる。
その瞬間、ゴクンという衝撃が下から突き上げてきた。
路肩の段差を踏み損なったスクータが、激しく上下に揺れる。
振り落とされそうな衝撃が、一瞬にして千尋を襲う。
『きゃっ!』と叫んだ千尋が、康平の背中へしがみつく。
元の密着する態勢に戻った千尋が、康平のヘルメットをコツンと叩く。
「下手くそ。狙いすました確信犯でしょ、あなた。
・・・まぁいいか。別にわたしの胸が減るわけでもないし。うふふ」
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第56話~60話 作家名:落合順平