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靴下に空いた穴

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 そうだ。あれから何年も経っているのに、どうしてこのタイミングで過去を思い出すのだろう? 嫌でも思い出すような事になったのだろう?
 偶然とは思えない。必然だとしたら、これからの私の為にもなくてはならない事だったのかもしれない。思えばこの3年、ほんの時たま夢をみて断片を思い出すくらいでそんなに深く考えた事はなかった。ようやく傷が癒えたのだと、忘れられたのだと勝手に思い込んでいたのかもしれない。だけど、本当はいつもちゃんとそこにあって私を待っていた。
 智といた方がいいと思った時から、いや、それよりもっと前から、私があの男から逃げて来た時から、ずっとその部分だけが変われなくて、忘れられも出来なくて、宙ぶらりんになって無意識に避けていた私が再び向き合うのを待っていた。そうかもしれない。
 これは私自身の問題なんだ。だけど、私だけではどうにも出来なくて、ちゃんと踏まえて進む事も出来なくて、ただ何となく置き去りにしてしまった問題なんだ。こうして智を含んだ現実に、それがハッキリと姿を現した事にはきっと意味があって、私はこの問題の収容先を決めないといけないんだ。そして、それを今私に一生懸命寄り添っている智に話さないといけない。
 話す事によって、智が嫌な思いをするかもしれない。もしかしたら、それが原因で嫌われてしまうかもしれない。この生活も終わってしまうかもしれない。だけど、それはやっぱり仕方ない事なのだとも思う。
 私達の関係は、きっともう第一章を通り過ぎようとしていて、新しい章に入っていこうとしているのかもしれない。だからこそ、お互いの事を話したり知ったりする事は必要な事なのかもしれない。
 ストーブの上の鍋から、ほわんほわんと美味しそうな色をした湯気が立ってきた。
 食いしん坊の智はきっと匂いにつられて目を覚ます。ホイッスルのようにかん高い音がして雑穀米も炊きあがった。目の前に広がる現実は温かく限りなく無限に広がっていて、私達はいつでも手を握れるくらい近い所にいるのだ。その全てが弱くて情けない私に優しく滲んで、先に進んで行く勇気をくれる。
「うまそうな匂いだ」
 智が頭をかきながら、冬眠から目覚めた熊みたいにぬっくり起きてきた。その声も顔も憑物が落ちたようにさっぱりとして見えた。私は安心した。
「あのさ・・ごめん」
「回復 した?」
「ん・・・うん。何となくわかった」
「何が?」
「先にご飯食べよう。それから話すから」
「そうだね。腹減ったー」
 私達は向かい合って粒マスタードをたっぷり添えた熱々のポトフを食べた。智はうまいうまいと、ご飯共に2杯もおかわりした。
 人間にとって食べ物は本当に大切なんだと、私はなにかある度に思う。智が作った火傷しそうなおでんも、動揺していた私を穏やかに落ち着かせてくれた。いつもは特に考えなしに何気なく口にしている食べ物は、その実私達人間に様々なプラスの力を与えてくれる奇跡なのだと思う。
 もちろんその時の状況、場所、一緒にいる相手、どんな物かという事も充分関係あるんだろうけど。それを抜きにしても、普通に感じる。感じる事が出来るようになったのかもしれない。
 予告なく、あの男に飼われていた部屋の景色が過った。オレンジ色の夕焼けが眩しく差し込んで来る窓にもたれて、スリップだけの格好をした私は、シミだらけで彼方此方白く剥げた畳の上に蹲り、あの男が買ってきたコンビニのパンを不味そうに小さくちぎっては口に運んでいる。時々、窓の外や周りに投げ散らしながら。夕日に透ける髪が覆い被さった私の顔には生気がなかった。まるで、石膏像みたいだ。
「ごちそうさまでした」
 智は空いたお皿を集めて手早く洗い始めた。そして珍しくラベンダー入りの甘いミルクティーを作ってくれた。私が好きでよく飲んでいるのを知っていたので気を使ってくれたらしい。
 ラベンダーが緩やかに香りたつミルクティーを前にして、私達は向き合った。なにから話せばいいのか少し迷ったが、とりあえず私がこんな状態になってしまった事から話した。

「私には親がいないの。母は父が死んでしまってから、ずっと1人で働きずめで過労が重なって、私が高校を卒業したくらいにぽっくり死んじゃったの。元々体が丈夫な人でもなかったし、特別綺麗な人でもなかった。ただすごく優しかっただけ。両親は反対されても駆け落ちまでして無理矢理結婚したみたいで、私は全く身内がわからなかったの。でも、もう高校生じゃなかったし、バイトしながら何とか一人で生活していた。だけど、なにかあった時には寂しくて不安で仕方なかったわ。料理もあまり出来なかったから、毎日塩ご飯や蕎麦とかうどんとかを茹でて食べたりしていた。そんな暮らしが一年くらい経った頃、私は夜なかなか寝付けなくて、夜の町をフラフラ徘徊したりしていたの。そして、公園に座って夜の町を眺めていた時に、ふらりと隣に座ってきたあの男に捕まった。」
 私は一度言葉を切った。智は興味深そうに煙草を点ける事もしないで聞いている。
「あの男って?」
「私をずっと養っていた人。親族とかじゃない。他人。最初はとってもいい人だったわ。新宿でクラブを経営していた。話を聞いてくれて、大変だったねって言ったの。これからは俺と暮らそうって言ってくれたわ。私は拾われた様な形になって、男の家に置かれる様になった」
「置かれるって? よくわかんないな。付き合う事になったって事でしょ」
「違うの。置かれていた。愛は・・あったのかはわからない。私はただ寂しくて、人恋しさだけだった。男には他にも女はいたみたいだった。私は飼われていたの。でもちゃんと仕事はしていた。私は男に言われたホステスの仕事をして、男の部屋で帰ってくるのを待った。詳しくはわからなかったけど、大きな親族があったらしくて、男はその中のみそっかすみたいな存在だったみたい。男はいつも酔っぱらって帰ってきて私を抱いた。と言うより私に色々させた。誰かと付き合った事がなくてそういう知識すらなかった私はそういうものだとずっと思っていたの。男は、私の事を俺の物だとずっと言っていたから」
「俺の物・・・」
 智が眉間に僅かに皺を寄せ、何処か苦々しく低く呟いた。
「うん。でも、男のする事が徐々に荒々しくなっていった。私はよくセックスしながら叩かれたし、蹴られたし、殴られたわ。多分、男は麻薬かなにかでもやってたんだと思う。でもその頃になると私も、神経も麻痺してしまったらしくて逃げようと思う事すら出来なくなってた。私はマインドコントロール紛いのやつに完全に嵌っていたのだと思う。痛くて痛くて、毎日がひたすら怖かった。終いには血だらけになって、それでも男はやめなかった。血だらけになって、首を掴まれながらセックスさせられた。目の前が真っ赤で何が何だかわからなかった」
 私はミルクティーを飲んだ。智も私につられて飲んだ。すると、不思議とそれまでの切迫していた表情が一気に和らいだ。ラベンダーの力だと思った。
作品名:靴下に空いた穴 作家名:ぬゑ