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靴下に空いた穴

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「2年くらい経った頃になって逃げなきゃって、やっと思い始めたわ。逃げないと殺されるって。でも、男に暴力ふるわれるのも怖かったけど、世間でやっていけるかどうかも怖かった。何しろ男に入り浸った生活に慣れ切っていたから。内緒で準備しようともした。その度に見つかって。とうとう何も持たずに飛び出したの。電車に飛び乗って何処まで行ったかわからないけど、適当な駅で降りて住む所を探したわ。だけど、当たり前だけど、身寄りも何もない私に貸してくれる部屋はなかった。早くも行き詰まって、でも帰れなくて私は宛てど無く彷徨った。気がついたら山の登り口みたいな所まで来ていた。どうしようかと思ってそこに座ってたの。辺りは暗くなって、徐々に寒くなってきた。山の中からは、狸かなにかの動物らしき得体の知れない様な鳴き声や叫び声もしていて怖くて仕方なかった。こんな何も無い汚れたシミみたいな私はこのまま山に入って、なにか神聖な山の動物にでも食べられた方がよっぽどマシなのかもしれないとも思った。急に例えようもない不安が襲ってきて、近くに設置してあった公衆電話に何度も目が行った。あの男に迎えにきてもらった方がいいのかもしれないとか考えて挫折しそうになった・・」

「もうどうしようもないで泣き出しそうになって、ふと見ると温かそうな灯りが点いた宿みたいな古い建物が、少し先に湯気を立てる様に建っていた。真っ暗な山のシルエットに囲まれて、周りに幾つか灯っている家々の頼りない蛍みたいな光よりもっと大きくて優しい、例えるなら、お祭りの縁日を照らすたくさんのぶら下がった提灯みたいな活気のある明るさだった。私は吸い込まれる様にそこに近付いて行った。そこは銭湯だった。地元に住んでいる様な馴染みのお年寄りとか夫婦とかが中に吸い込まれては、又違う人達がニコニコした温泉卵みたいな顔をして出てきた。私はポケットの中を探った。まだ少し小銭があったから、迷わず中に入ったわ」
「気持ち良かった?」
「とっても。少しお腹が減ってたけど、天国みたいだった。人間って、暖かくするのと食べるのってとっても大事ね。その時つくづく思ったわ。大丈夫。私はこれから何とかやっていけそうって希望が湧いてきたの」
「そう。良かったね。そこに銭湯があってさ」
 智はようやく煙草を巻いて火を点けた。どうやら安心して聞ける段になったらしい。
「それで、どうなった?」
「あがって脱衣所で服を着ている時に、鏡に貼ってあった働き手募集って書いてある紙を見つけたのよ。大急ぎで番台に掛け合ったわ。何でもやりますからどうか住み込みで働かせて下さい!もう帰る所もないんです!お願いします!って・・・」
「銭湯のご主人はよくよく私の話を聞いてから、黙って泣いてくれた。ここにいなさいって言ってくれたの。本当に嬉しかった。救われた気がした。私はそこで働く事ができたの。その時に、一緒に住んでいた子どもさんの相手をして絵を描いたり話を作って聞かせたりしているうちに、何だか評判になって、おかみさんの知り合いに出版社の人がいるから試しに会ってみたらどうだって事になって、今の私があるの」
「そうだったんだね。その銭湯は今でもあるの?みんな元気なの?」
「もう銭湯はなくなっちゃった。ご主人は元気なんだけど、おかみさんは癌で2年前に・・」
「会いに行ったりしてるの?」
「うん。時々。電話もしてる。私の事を実の娘みたいに可愛がってくれて、絵本が売れた時もすごく喜んで大泣きしてくれて。年内におかみさんの御墓参りも兼ねて訊ねようと思ってる」
「そうだね。それがいい。俺も一緒に行っていい?」
「え・・ う、うん! もちろんいいよ」
「良かった」
 智は目を瞬かせながら、ゆっくりと鼻から煙を吐き出した。白髪混じりの鼻毛が出ている。満足そうに無精髭だらけのピンクの口をアヒルみたいにして。涙袋が笑ったときみたいにぷっくりしている。
 私は吹き出してしまった。そしてとても嬉しかった。
「ありがとう」
「? 何が?」
「色々」
「そうだよ。雨のお守りは大変なんだから」
 この時程、智の事を尊敬した事はなかったのかもしれない。そのくらい私は智をすごいと思った。
 普通に育ってきた人間はみんなこうなんだろうか?それとも智は特別なのだろうか?
 私が思い悩んでいた事をひょいっと飛び越えて、何も無かった顔をして先の方で待っている。それはもしかしたら才能なのかもしれない。だから智の周りにはいつも素敵な友達が多くて、楽しい雰囲気が満ちているのだ。
 その夜、私達は寝室で、テレビをつけっぱなしにしてセックスをした。本当はミュージックDVDを見ていたのだけど、どちらからともなく自然にセックスしていた。
 智とのセックスは優しく暖かで緻密に満たされた行為だった。気持ちが良い。私はあの男以来、セックス恐怖症になってしまっていた。けれど、智とは全く自然に出来たのだ。不思議だった。それだけ私にとって智は特別だという事なのかもしれない。私は安心しきって、幸せに身を委ねた。



 ある晴れた昼過ぎ、私は智の急に入ったナレーションの仕事の為に、昼から代わりに店番をしていた。
 あの事件以来、智は警戒して私に頼もうとはしなくなったが、今日はどうしても午後から取り置きしていた品を取りに来るお客さんがいたので私が急遽いる事になったのだ。
 別にもうなんともなかったし、私もそんな気にもしていなかった。私の中で宙ぶらりんになっていた部分は、智の力を借りてちゃんと過去と言う部屋の与えられた場所に収まっていたし、すこぶる安定していた。
 ちょうど絵本の続き物シリーズを持ちかけられていたので、それについての案と想像を膨らませていた最中だった。前作の黒猫を題材にした絵本がかなり好評だったので、その勢いでお願いしますと依頼が来たのだ。主人公はどんなものにしよう?なにか虫がいいな。
「すごいじゃん。売れっ子絵本作家! じゃ、悪いけど頼むね」
 例によって細かく指示をして、智はさっさと出掛けてしまった。恐らくもう警戒の波が去ったのだろう。用心深いくせに、案外そのブームは思ったよりすぐ終了する。
 アクシデントが来た時に、その場で対処すればいい。来ないうちは心配しても仕方ない。それが智の考えだった。なんとお気楽な楽観的な。けれど、きっとそのくらいの方が逆に楽に生きて行けるのかもしれない。
 確かに今しか見てなさ過ぎるのは若干危険があるけれど、まだ起こっていない先の事を考えてあれこれと思案しているよりは、今だけを見て全力投球真剣に生きた方が素敵だ。とっても素敵。後悔しなさそうだし。
 智と一緒にいるのが長くなれば長くなる程、その天の邪鬼で不思議だと感じる生態に意を突かれる事も少なくなってきた。それは私が智に慣れてきたからかもしれない。智ワールド。いつか私も智みたいになれるのかな。そういえば、私は彼の過去は未だ全くわからないな・・・
 そんな事を考えていたら、女の人に声をかけられた。さすがに例の一件で学習した私は、出来るだけの精一杯の笑顔を取り繕って返事した。
「いらっしゃいませ!」
「智、いますか?」
「いえ。智は今いませんが」
作品名:靴下に空いた穴 作家名:ぬゑ