靴下に空いた穴
全くの濡れ衣を着せられても、私は首を横に振るしか何も言えなかった。息を激しくついて、体が動かなかった。視界が滲む。増々赤が広がっていく。もう誰が誰だか見分けがつかない。
「お客さんはなにか買おうとしたんですか?」
「俺か? まだだ。何があるか見てたらな、勝手にこの壷を売りつけてきやがって、断ったら暴言吐いてきやがったからーさすがの俺も切れたのさ!」
出鱈目ばかりを並べ立てている。頭蓋骨に生温いお湯を入れられたような感覚だった。お湯の中で脳みそがゆっくりと波打って揺れている。私はしゃがみ込んでいるのもやっとだった。智の声がする方向を見上げた。途端、赤色が切れて智が見えた。智は相手を見据えたまま微動だにしない。まるで、目を逸らしたら負けといった獣同士の戦い。感情を秘めた黒曜石ででも出来ているかのような目は冷静だった。
「成る程。それでお客さんは何処からこの壷を持ち出してきたんです?」
「これか? これは、それそこの隅の方に転がってたのさ」
「で、これをうちの店番が売りつけようとしたと」
「そうだ。こんな小汚い壷をよ!」
「そりゃそうでしょうね。だって、これは売り物じゃないですから」
「は?!」
「いや、売り物じゃないんですよ。ほら、ここに非売品って貼ってあるじゃないですか」
「どれ・・あ、本当だ。って事はこのやろう商品にもならないものを売りつけようとしやがったのか!」
「いやいや。お客さん、もういいでしょ。商品じゃないものを、わざわざ売りつけたりしませんよ。特にこの壷はタダ同然で、儲けになりませんから。うちの店番は愛想がないのが売りみたいな人間ですから、わざわざ商売っけを出して売り込むなんて芸当出来ませんよ。うちの店はあくまでお客さんが自ら選んで納得したものを買っていくだけのそっけない店です。店員にそれ以上のなにかしらのサービスを求めるのでしたら、大型店やチェーン店なんかに行って騒いだ方がちっとは良い対応をしてもらえるんじゃないですか?こんなちっぽけな店で、揉め事を起こした所で警察ざたになって終わりですよ」
「何を・・・!」
「ちなみに、今、あなたしっかりとその子の襟首掴んでましたからね。僕が目撃者です。知ってますか?先に手を出した方が悪いって」
「お客を舐めてんのか!」
「僕は、あなたみたいなマナーも守れない横柄で我が儘な人間をお客だなんて思ってない」
今や智の声は氷点下を思わせる冷酷な声だった。店を責任を持って守っていく店主の声なんだ。
「あんた、そんな事言っていいと思ってんのか!」
「こっちにもお客を選ぶ権利があるんでね。出てって。二度と来るな!」
そう言って、智は悪態をついて喚いているその男を外に放り出した。それから警察に電話しているようだった。私はただ蹲って、埃だらけの水中みたいに見える床を焦点も合わなく見つめていた。また赤色がチラチラチラチラ飛び始めた。ここは一体何処だろう?まるで記憶の前後関係がわからない。
「雨、大丈夫か? 危なかったな」
智が私を立たせてくれた。私は上手く足に力が入らずに智に凭れ掛かるような格好になってしまった。足も手も震えていて使い物にならない。智は抱き締めて背中を優しく撫でてくれた。
「怖かったろう。もう大丈夫だ。警察にも連絡しておいたし。 帰ろう。 帰って、なにか暖かい物でも食おう。な。 俺が作るから。何がいい? 何食いたい? おでんでいい?」
「 う・・ う ん」
口までが上手く回らない。智がコートまで着せたりしてひどく心配していた。智に半分程体を預けて寄り添って帰り道、私は自分の奥深くにまだ変わらずに巣食っているあの男の存在をひしひしと感じた。そして、それに反応してしまう、よく仕付けられた犬のような私自身も。あのお客に締め上げられた時に、生々しく蘇った感覚に赤さに、私はどうしていいのかわからず、ひたすら内に閉めてずっと黙っていた。
そんな私の様子を時々横目で伺いながら、智は繰り返した。
「おでん、うまいの作るからな」
あの一件以来、私は店番禁止となり、ナレーションの仕事が一段落ついた智が店に出ていた。
私自身も抜け殻のようになってしまい仕事もほとんど手につかず、家で塞ぎ込んでばかりいた。
「ただいま」
夕方、智が帰ってきた。中途半端な濃さの墨で適当に塗られたみたいな真っ暗になった居間のソファーに膝を抱えて、まるで打ち捨てられたお地蔵さんのように私は座っていた。
智が暗過ぎるんだよと言い、家の電気を至る所点けてまわった。彼は暗いのが陰気臭くて嫌いだった。
「夕ご飯、どうする? 俺、ちょっと疲れたから 少し休む」
そのか細い声のトーンに私は智を振り返った。智は目の周りをクマのように薄黒く膨らませ、一気に老け込んだ顔をしていた。顔の毛穴とかしわとか色んな部分から、疲労感が滴り落ちていた。私は本当に後悔した。私はあれから一体、どのくらいこの人を放置していたのだろう。もう確実に一週間は経っている。
「ごめん・・・私、作るよ」
「そうしてもらえると助かる。俺、ちょっと寝るから。出来たら起こして」
立ち上がった私と入れ違いに智はソファーに倒れ込んで、いびきをかき始めた。よっぽど疲れていたのだ。私は毛布を取ってくると上からかけた。智は固い表情で戦場の兵士のように沈み込んで眠っている。
台所に行って、ある材料を適当に出すとポトフを作り始めた。半年前くらいに智と作ったソーセージが幾つか残っていたらいいなと冷凍庫を探した。智は料理が好きだったので、いきなり薫製を作ったり、漬け物を始めたり、干物を作ったりとその時のブームで色々と手を出していた。私もそういった所謂家庭的な事が好きだったので2人でよく作っていた。
智は一人で晩酌もよくするのでもしかしたらつまみに食べてしまったかもしれないと思ったが、ソーセージは奥の方にまるで今日のポトフを待っていたようにひっそりと6本、行儀よく並べられていた。セージ、ナツメグ、コリアンダー、カルダモンなんかの私の好きなハーブがたっぷり入って、更にニンニクや粗挽きペッパーなんかもたっぷり入った特製だった。
ジャガ芋と人参とキャベツとセロリと大根と長ネギと玉葱をざく切りにして、ついでにシメジも軽く分けてソーセージと一緒に鍋に入れながら私は思い悩んだ。
智に正直に私の底に存在する事を話した方がいいのだろうか。果たして、それを智に言う事は私達に必要な事なのだろうか?
智は何も聞いてこない。それは彼の優しさや思い遣りなんだと思う。私が話すのを待っているのかもしれない。それともやはり私と同じで智も話す必要も聞く必要もないと考えているのか。どれも定かではなかった。私は野菜の入った鍋にコンソメとローリエとブラックペッパーを入れて水を注ぎストーブの上にかけた。それから雑穀米を固めに炊いた。
智と私の事なのに、そんな憶測でしかものを考えられない自分が、いかにこの付き合いを真面目に考えていないのかを気付いたようになって何だか嫌気がさしてしまう。まったく私はいい加減な女なのだ。ストーブの青い美しい炎は、そんな私と対比して気高く静かに燃えている。まるで私の心を映し出すように。大切ななにかに気付いてご覧と囁いている様に。